そう、彼、アリョーシャの方へ、顔に小皺の一面によって枯れた老人が、静かにほほえみながら、嬉しそうに歩みよってきました。
(205)の『』の中は「アリョーシャ」の頭の中ですが、ここでいきなり地の文が続いています、これは語り手が「アリョーシャ」の夢というか幻想の中に入り込んで、それを客観的に描いているのですね、少々分かりにくいのですがこの場合の語り手の位置というのが微妙です。
柩はすでになく、長老は昨夜客が集まって席をともにしたときの、あの服装のままです。
何のかげりもない顔に、目がかがやいています。
これはどういうわけだろう、してみると長老もやはりガリラヤのカナの婚礼に招かれて、祝宴に出ているのだ・・・・
『そう、やはり招かれたのだ。よばれたのだよ、招かれたのだ』
耳もとで静かな声がひびきます。
『なぜ姿を見られぬよう、こんなところに隠れておる・・・・お前もあっちへ行こうではないか』
あの方の声だ、ゾシマ長老の声だ・・・・それに、自分をよんでいる以上、あの方に決っています。
長老は片手でアリョーシャを引き起こしました。
ひざまずいていたアリョーシャは立ちあがりました。
『愉快に楽しもう』
枯れた老人はさらにつづけます。
『新しいぶどう酒を、新しい偉大な喜びの酒を飲むのだ、どうだ、この大勢の客は? ほら新郎新婦もいる、あれが賢い料理がしらだ、新しいぶどう酒を味見しているところだよ。なぜ、わたしを見ておどろいている? わたしは葱を与えたのだ、それでここにいるのだよ。ここにいる大部分の者は、たった一本の葱を与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな・・・・われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、忰よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』
『こわいのです・・・・見る勇気がないのです・・・・』アリョーシャはささやきました。
『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠なのだ。ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる、見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか・・・・』
何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしりました・・・・彼は両手をひろげ、叫び声をあげて、目をさましました・・・・
ここまでが、「アリョーシャ」の夢ですね。
夢の中の場面は「イエス」のいる聖書の有名な一シーンなのですが、そこには「ゾシマ長老」がいて、「アリョーシャ」もいます。

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