彼は荷馬車の方に向き直り、座席の下からピストルの入った箱を引っ張りだしました。
「ドミートリイ」はすでに馬車からおりているのでしたね、それで「荷馬車の方に向き直」ったわけです。
「勘定だ、アンドレイ、受けとってくれ! ほら、馬車代が十五ルーブル、それと酒手に五十ルーブル・・・・用意のよさと、親切さとに対するお礼だ・・・・このドミートリイ・カラマーゾフをおぼえててくれよ!」
馬車代が一万五千円、それにチップとして五万円です。
「わたしは心配で、旦那・・・・」
「アンドレイ」が尻込みしはじめました。
「チップに五ルーブルだけいたたきますが、それ以上はいたたけませんや。トリファンが証人でさ。ばかなことを申しあげて、お赦しくださいまし・・・・」
「アンドレイ」は「トリファンが証人でさ」と言っていますから、「ドミートリイ」から多額のお金をもらうことによって仲間として見られることを心配しているのでしょう、それで、このあとに書かれているように「ドミートリイ」は「まじまじ」と「アンドレイ」を眺めて、彼の気持ちに気づいたのかもしれません、いずれにせよ事実を描写しているだけですが、それが複雑で微妙な心理描写になっているところは見事です。
「なにを心配してるんだ」
「ミーチャ」はまじまじと相手を眺めました。
「それなら勝手にするがいいさ!」
五ルーブルを投げ与えながら、彼は叫びました。
「今度はなトリフォン、こっそり俺を案内して、まず最初にみんなの様子を一目のぞかせてくれ、相手に気づかれないようにな。どうこにいるんだ、青い部屋か?」
「青い部屋か?」というのがおもしろいですが、やはり「ドミートリイ」は自信がないのでしょう、先ほども部屋の中の様子を「トリフォン」に聞いたにもかかわらず、卑怯にも、自分が登場する前にその場の雰囲気を覗き見しようとしています。
「トリフォン」は不安そうに「ミーチャ」を眺めましたが、すぐにおとなしく言うことをききました。
彼は用心深く「ミーチャ」を案内して玄関のホールをぬけ、客の陣どっている部屋と隣合った、とっつきの広い部屋へ自分だけ入ってゆき、蠟燭を運びだしてきました。
「とっつき」とは、いくつかあるうちのいちばん手前のことです。
それからこっそり「ミーチャ」を中に入れ、姿を見られずに相手を自由に観察できそうな、片隅の暗がりに立たせました。
この部屋の位置関係がさっぱりわかりません、隣合った部屋で「姿を見られずに相手を自由に観察できそうな、片隅の暗がり」とはどういう構造になっているのでしょうか。
だが、「ミーチャ」はほんのしばらく眺めていただけだったし、それに十分見きわめることなどできませんでした。
彼女の姿を見るなり、胸がどきどきし、目の前がかすんでしまったのです。
彼女はテーブルの横の肘掛椅子に坐っており、その隣のソファには目鼻立ちのととのった、まだ非常に若い「カルガーノフ」が坐っていました。
「カルガーノフ」が登場したのは(120)の「場違いな会合」のときに、「ミウーソフ」と教会にやってきて、「マクシーモフ」らと昼食会に招かれています、そしていろいろ騒動があって(276)で「ミウーソフ」といっしょに教会から逃げ出しました。
彼女は青年の手をとって、笑っているらしかったのですが、青年は彼女を見ずに、テーブルをへだてて「グルーシェニカ」の真向いに坐っている「マクシーモフ」に、何やら気色ばんだように、大声で何事か言っていました。
その「マクシーモフ」はなにかひどく笑っていました。
ソファには彼(一字の上に傍点)が坐っており、ソファのわきの、壁ぎわの椅子に見知らぬ男がかけていました。
ソファに行儀わるく坐っている男はパイプをくゆらしていました。
このでっぷり太った、盤台面(ばんだいづら)の、あまり背の高くなさそうな男は、何かに腹を立てているみたいだな、という思いがちらと「ミーチャ」の頭をよぎりました。
「盤台面(ばんだいづら)」とは、「盤台のように、平たくて大きい顔をあざけっていう語」とのことですが、ポーランド人の将校はそんな人だったんですね。
その友達らしい、もう一人の見知らぬ男は、「ミーチャ」には並みはずれた長身に思われました。
しかし、彼はそれ以上何一つ見きわめることができませんでした。
息がつまりました。
ものの一分と立っていることができず、彼はケースを箪笥の上に置くと、身体が冷たくなって心臓がとまりそうなのを感じながら、まっすぐ青い部屋の客のところに入っていきました。
「あれ!」
「グルーシェニカ」が真っ先に彼に気づいて、怯えた悲鳴をあげました。
まさにこれは修羅場ですね。

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