2018年4月19日木曜日

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「フランスの有名な作家ですが、そのピロンのせいなんです。そのときわたしらはレストランに大勢集まって酒を飲んでおりました。例のあの定期市でございますよ。わたしはみんなに招かれたので、まず皮切りに寸鉄詩を読みはじめましてな。『これ、ブアロー、その珍妙な服装は何とした』(訳注 クルイロフの寸鉄詩から)ここでブアローが、実は仮面舞踏会へ行くところだ、と答えるのですが、これはつまり風呂屋へ行くということでございましてな、ひ、ひ、ところがみんなはこれを自分たちへの当てつけと取ってしまいましたので、そこでわたしは急いでもう一つ、教養のある人ならだれでも知っている、辛辣なやつをやってのけたんです。
お前はサファ、わたしはフォオン
そのことに異存はないが、
悲しいことに、
お前は海への道を知らぬ。(訳注 バーチュシコフの寸鉄詩から)
すると、みんなはいっそう腹を立てて、わたしを口汚く罵りはじめるじゃありませんか。わたしは雲行きを直すために、たまたま運わるくも、ピロンに関するきわめて含蓄に富んだ一口を披露しちまったんですよ。ピロンがフランス・アカデミーに入れてもらえなかったために、腹癒せのつもりで、墓石に自分の墓碑銘を書いたという一口話です。
C i g î t   P i r o n   q u i   n e   f u t   r i e n
P a s   m ê m e   a c a d é m i c i e n .
(生前何者でもなく、アカデミー会員でさえなかったピロン、ここに眠る)
そうしたら、みんながわたしをつかまえて、殴りつけたというわけでした」

この「カルガーノフ」の発言の中の「例のあの定期市」とは何のことでしょうか。

「寸鉄詩」というのは、「エピグラム(警句、寸鉄詩、epigram)は、結末にひねりを利かせるか、簡潔でウィットのある主張を伴う短い詩。語源はギリシャ語のepi-gramma(~に書かれた)で、文学的修辞技法として長い歴史を持つ。」とのことで、さらに「…古くは墓碑詩で死者と生者の間に交わされる短い,含蓄の深い言葉のやりとりを記すに留まるが,ヘレニズム期に至り詩的技巧の洗練とともに文学性を濃くし,言葉すくなく優雅な情緒や胸深く秘められた思いを告げるものとなる。さらにグレコ・ロマン期には,濃縮された1語2語のことばづかいの中にユーモアや風刺や逆説をこめて読者の心を刺すくふうが凝らされ,ここにエピグラム,すなわち〈寸鉄詩〉あるいは〈格言詩〉という,近世人の抱く概念の基となるジャンルが完成した。ギリシア詩文のエピグラムは《ギリシア詞華集》に集録されて後世に伝えられたが,ラテン詩エピグラムは,カトゥルスをはじめ個々の詩人の詩集に伝わり,特にマルティアリスの《エピグラム集》は機知に富む。…」とのことです。

「クルイロフ」は「イヴァン・クルィロフ」のことで、「19世紀ロシアの劇作家・文学者。『寓話』(Басни)の作者として著名。」そして「軍人の子としてモスクワに生まれる。プガチョフの乱の時には父の赴任によりオレンブルクにいて、プガチョフの包囲を経験する。プーシキンの小説『大尉の娘』はクルイロフの幼時の回想が参考にされたとも、作中のミロノフ大尉のモデルがクルイロフの父であるとも言われる。父の死後、8歳で下級裁判所に雇われ、その後トヴェリの県会に勤め、貧困の中で苦労を重ねる。1783年には母とともにペテルブルクに移り、税務監督局の下級吏員として働きつつ、文学・数学・フランス語・イタリア語を勉強した。1784年、14歳で喜劇『コーヒー挽き』を、1786年から1788年にかけて喜劇『異常な家族』などを書き、上演には到らなかったがジャーナリズムに知己を得て、文学に専念しようと決意した。ヴォルテール・ディドロなどの啓蒙思想家の影響を受け、1789年に『精霊通信』(Почта духов)、1792年に『見物人』(Зритель)、1793年に『ペテルブルク・メルクリー』(Спб. Меркурий)などの雑誌を発刊し、当時の貴族社会の堕落や官僚機構の腐敗を暴いたために、革命的な主張で当時問題とされていたラジーシチェフと同一視され、雑誌は発禁とされた。1794年にペテルブルクを離れ地方に隠れ住んでいたが、1802年に『精霊通信』誌を再開し、1806年にペテルブルクに戻って文学活動に入る。貴族社会のフランス心酔を揶揄する喜劇『服飾品店』『娘教育』はいずれも成功し、1809年から『寓話』を発表し始めた。交流していた官界の大立物オレーニンの推薦で、1812年から1843年まで帝国公衆図書館に勤めた。この間デカブリストの乱が起こった1825年以後2年間沈黙したのを除き、1834年まで彼の名を不朽にした『寓話』が断続的に執筆されている。1841年にはロシア科学アカデミー・ロシア言語・文学部会正会員になり、生涯独身のまま没する。」また「全203編のクルイロフ寓話は、「烏と狐」「二羽の鳩」「ライオンと狐」のようにイソップやラ・フォンテーヌから、「隠者と熊」「潜水夫」のようにインド寓話から題材をかりたものの他は、大半が創作である。1788年にクルイロフが訳したラ・フォンテーヌ3編を読んだ、当時高名な寓話作家ドミートリエフのすすめが、寓話執筆のきっかけとなったらしい。ラ・フォンテーヌ以降の芸術作品としての寓話を発展させ、冬の詳しい描写を加えたクルイロフの物語はロシアの風土に密着し、登場する動物たちさえロシア人の風貌を備えているといわれる。劇作や諷刺雑誌でエカチェリーナ2世の不興を買い、8年間も地方生活を余儀なくされた結果、クルイロフは反体制の思想を「イソップの言葉」で表現し、つまり真実を屈折させ自分の感情を隠す方法を編み出した、と考えられる。1817年からのポーランド語訳を初めとして、英・仏・独・伊の諸国語に翻訳された。国内でもその詩の文体はプーシキンに、ユーモアのある描写はゴーゴリに、鋭い諷刺はシチェドリンに強い影響を与えた。その他、諺のように作品に『寓話』を引用した例は、ドストエフスキーなど枚挙にいとまがない。」とのこと。

『これ、ブアロー、その珍妙な服装は何とした』の出展はわかりませんでした、岩波文庫より『完訳 クルイロフ寓話集』が出版されており、これを読めば出てくるでしょうか、この一連の話の意図がわかりません。

二番目の寸鉄詩の作者「バーチュシコフ」とは、「[生]1787.5.29. ボログダ[没]1855.7.19. ボログダ、ロシアの詩人。フランス啓蒙思想の影響を受け,保守的な文学を風刺する詩『レーテの岸辺の幻』 Videnie na beregakh Lety (1809) で脚光を浴びた。」また「ロシアの詩人。古い家柄の貴族の家に生まれる。対ナポレオン戦争に参加、のち外交官としてイタリアに駐在。早くからアナクレオン風の軽妙な詩風の作品を書き、カラムジンの文章語改革を支持する「アルザマス会」(1815~18)の一員となる。生の悦(よろこ)びと悲哀を繊細に歌い上げた作品が多く、代表的な詩に悲歌(エレジー)『友の影』(1814)、『瀕死(ひんし)のタッソー』(1817)などがある。作品集に『詩と散文の試み』(1817)がある。ギリシア古典詩やバイロンの紹介にも功績があり、プーシキンの直接の先行者として知られる。1822年遺伝性の精神病のため活動を停止。」とのこと、なおこの詩の出展もわかりませんでした。

なお、会話の中にフランス語が出てきますが、アクサンテギュやアクサンシルコンフレクスの入力の仕方がわかりませんでしたので、ここだけはやむをえずKindle版からコピーして貼り付けました、後でわかったのですが、Macの場合アクサンテギュは「option+e を打った後に母音字」、アクサンシルコンフレクスは「option+i を打った後に母音字」で簡単に入力できることがわかりました。→(í)と(î)

会話に戻ります。

「でも、なぜです、どうして?」

これは「ドミートリイ」の言葉だと思います。

「わたしの教養のせいです。世間の人はいろいろな理由をつけて人を殴るものでしてね」

「マクシーモフ」はさとすように、穏やかな口調でしめくくりました。


これは少し肩すかしの「落ち」ですね、でもまあ、私の気づかない何かがあるのかもしれません。


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