2018年4月18日水曜日

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「それにゴーゴリの場合、すべてがアレゴリーの形をとっておりますしね。なぜって人の名前がみんなアレゴリーですからな。ノズドリョフにしても、本当はノズドリョフ(訳注 鼻腔をもじった名前)じゃなく、ノーソフ(訳注 鼻をもじった名前)ですし、クフシンニコフ(訳注 水差しをもじった名前)になると、これはもうまるきり似てもいません、本当はシクヴォルネフという名ですからね。フェルナンディはたしかにフェルナンディでしたけれども、イタリア人じゃなく、ロシア人で、ペトロフという名前でございました。マドモアゼル・フェルナンディは美人でして、かわいい足をタイツで包み、金箔をちりばめた短いスカートで、くるくると踊ったものでした。ただ、四時間もなんてことはなく、せいぜいただの四分間くらいでしたけれど・・・・それでもみんなを魅了したものでして・・・・」

この「マクシーモフ」の知的な発言は驚きました、嘘とは思えません、実際にそうであったように思えます。

「アレゴリー」とはウィキペディアでは「抽象的なことがらを具体化する表現技法の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。アレゴリーの特徴として、教訓や風刺の意味を持つことが多い。またその場合はできる限り普遍的なモチーフに置き換えることによって、その作品に触れた人々が置き換えられた概念を想起し易いようにさせている。例えば寓話にはしばしば「狡猾な狐」が登場するが、実際に狐が他の動物に比べてずば抜けて狡猾であると言う論拠はさほど多くはない。しかし詩文や絵画においては「狐や蛇=狡猾」というイメージが説得力を持つことがしばしばである。これは狡猾という抽象的な概念を狐という動物になぞらえてあらわすものであり、この与えられた抽象を持つもの(あるいはものに与えられた抽象)がアレゴリーである。他の一例として、タロットカードの絵柄に見られるシンボリックなアイテムや宗教絵画などに登場するモチーフがそれに相当する。その他の例:天秤=公正・白色=純潔。歴史的にはギリシアにおいて神話上の人物を哲学的に解釈し始めた頃に生まれた概念であるとされる。その後聖書なども同じアプローチで解釈が行なわれた結果、キリスト教神学と中世の実在論哲学においてこの概念は大きく発展した。チェザーレ・リーパの『イコノロジア(図象学)』で特に頻繁に扱われている。また象徴(シンボル)とは微妙に意味を異にしており、一般に知られた普遍的な概念(「普遍」)と擬人(比喩)表現(「特殊」)が一体化しているシンボルと異なり、「普遍」と「特殊」がある意味においては逆になっても直観として双方に通じる意味を持つ場合をアレゴリーであるとシェリングは説いている。現代美術においてもアレゴリーを用いた表現は自覚・無自覚を問わずに行なわれ続けている。」とのことですが、わかりにくいですね。

また「比喩」とは「物事を説明するとき,相手のよく知っている物事を借りてきて,それになぞらえて表現すること。その方法により,直喩・隠喩・換喩・提喩・諷喩などがある。」とのこと。

さらに、直喩(ちょくゆ、明喩(めいゆ)、シミリー)とは「(まるで・あたかも)~のようだ(ごとし、みたいだ)」のように、比喩であることを読者に対し明示している比喩である。直喩を用いた修辞法を直喩法という。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…』で知られる『平家物語』の序段は、この直喩の典型例である。日本では現代でも頻繁に用いられてはいるが、近現代の西洋ではあまり洗練された技法とはみなされておらず(ある意味でヤボな技法だと見なされており)、文筆家・作家・詩人・知識人などの文章では、直喩よりも(後述の)隠喩のほうが頻繁に用いられる。用例:赤ん坊の肌はまるで綿飴のようにふわふわだ。/鳥みたいに羽が生えたら自由に空を飛べるのに。/息子は二宮金次郎のごとく、勉学に励んだ。/あいつのいない夏休みなんて真夏のスキー場みたいなものだ。

また、隠喩(いんゆ、暗喩、メタファー)に分けられるものは、比喩であることが明示されていない比喩である。隠喩を用いた修辞法を隠喩法という。用例:夜の帷が静かに幕を下ろす。/この思い出を忘れまいと、心の宝石箱に仕舞い込んだ。/満天の星空が二人の間に降り注ぐ。などで、いずれも「まるで」「ごとし」「ようだ」などといった比喩を明示するための語が用いられていない。直喩に比べて、より洗練された比喩だとされる。「すし詰め状態」「団子レース」「マシンガントーク」などのように定型句となった表現も見られる。

そして、換喩(かんゆ、メトニミー)とは表現する事柄をそれと関係の深い付属物などで代用して表現する比喩である。換喩を用いた修辞法を換喩法という。また「永田町」と言って国会を、「葵の御紋」と言って徳川家を指すのも換喩の一種とされ、『象徴喩』と訳されている。用例:「バッハ」が大好きだ。「バッハ」がバッハの作品を指している。/「そのワインを開けてくれ」実際に開けるのはワインではなく、ワインが入っているボトルの栓である。/象徴喩の用例:ボルドーの赤、ブルゴーニュの白。ここでの「赤」と「白」はワインの種類を指している。/ペンは剣より強し。ここでのペンは弁舌や学問を指し、剣は武力、暴力、戦争などを指している。

さらに、提喩(ていゆ、シネクドキ《Synekdoce》)とは上位概念で下位概念を表したり、逆に下位概念で上位概念に置き換えたりする比喩をいう。換喩との違いは、包含する関係にあるか否かである。提喩を用いた修辞法を提喩法という。用例:全く、情けない男だ。ある人物が相手にこう告げた時、情けないのはその相手(下位概念)だけであって、男全般(上位概念)を指しているわけではない。/豚肉も悪くないけど、どちらかといえば鳥の方が好きだな。まず鳥という上位概念で鶏という下位概念を指している。さらに、鶏という上位概念からさらに下位概念の鶏肉、あるいは鶏肉料理を指している。/このように提喩は上位、下位の概念が階層化することもある。紙もすっかり値上がりしたので、本当に困る。会話の状況によって、この紙がトイレットペーパーを指してるのか、それとも何らかの用箋を指しているのかわからないが、紙という上位概念で、下位概念を想起させるものとなっている。

そして、諷喩(ふうゆ、英: Parable)とは、寓意に使われるようなたとえのみを提示することで,本当の意味を間接的に推察させる比喩を言う。寓言法。寓喩法。用例:「燕雀(えんじゃく)安(いずくん)ぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」小人物に大人物の心はわからない、ということを鳥の話のみをして推察させている。燕雀は小物、鴻鵠は大物という共通認識の上に成立する諷喩。/猿も木から落ちる木登りを得意とする猿でも木から落ちることのみを示し、得意な人でも失敗することがあるという意味を推察させる諷喩。

以上、わかりにくいと思います。

続きに戻ります。

「で、どうして殴られたんです、殴られた原因は何ですか?」

「カルガーノフ」が叫びました。

「ピロンのせいなんですよ」

「マクシーモフ」が答えました。

「ピロンて何です?」

「ミーチャ」はどなりました。


さすがの「ドミートリイ」も「ピロン」を知らないようですね、「ピロン」とは「アレクシス・ピロン(Alexis Piron、1689年7月9日 - 1773年1月21日)」のことで、「フランスの詩人、劇作家。ディジョン出身。オペラ・コミックの台本作家として有名、喜劇『道化師ドゥカリヨン』 Arlequin Deucalion (1722) ,『作詩狂』 La Métromanie (38) で知られる」とのこと、ネット上にはあまり情報がありませんでした。


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