二 大騒ぎ
この郡の警察署長「ミハイル・マカーロフ」は、七等文官に転じた退役中佐で、男やもめの立派な人間でした。
(769)では「ミハイル・マカールイチ」、(775)では「ホフラコワ夫人」に「ミハイル・マカーロウィチ」と呼ばれ、ここでは「ミハイル・マカーロフ」となっていますね。
この町にきてからせいぜいまだ三年にしかなりませんでしたが、もっぱら《社交界をまとめてゆく手腕》によって、すでに世間一般の共感をかち得ていました。
彼の家には客の絶えたことがなく、彼自身も客がないと暮してゆけぬかのように見えました。
たとえ、客が一人か二人にせよ、毎日必ずだれかしら夕食に連なりましたし、客が来ないうちは食卓も囲もうとしませんでした。
ありとあらゆる、時にはまったく思いもかけぬような口実を設けて、招宴も行われました。
料理は凝ったものでこそありませんが、内容豊富で、とびきり上等のピロシキが出ましたし、酒も質もそとびぬけたものでないとはいえ、量ではひけをとりませんでした。
玄関のホールには、きわめて作法どおりの小道具を配した玉突台が置かれてありました。
つまり、四方の壁に黒い額縁におさめたイギリスの競走馬の絵がかけられてあり、周知のとおり、これは独身者の家の玉突部屋には欠くことのできぬ装飾とされているからです。
毎晩、たとえ一テーブルにせよ、カードの勝負が行われました。
しかし、この町の上流社会の人々が夫人や令嬢を同伴して、ダンスに集まることも、しばしばでした。
「マカーロフ」は妻に先立たれはしましたが、これもだいぶ前に未亡人となり、今や「マカーロフ」の孫にあたる二人の令嬢の母親である自分の娘を手もとに置いて、家庭的な暮しをしていました。
令嬢たちはもう成人して、学業も終え、器量もわるくありませんでしたし、明るい気立てでしたので、持参金のないことはだれもが知っていましたが、それでもやはりこの町の社交界の青年たちを祖父の家に引きつけていました。
仕事の面で「マカーロフ」はさほど読みのきくほうではありませんでしたけれど、職務を遂行するのは他の多くの人に劣りませんでした。
端的に言うなら彼はかなり教養のない人間で、自己の行政的な権力の限界を明確にわきまえるという点に関しては呑気でさえありました。
今の治世の各種の改革にしても、まるきり理解できぬというわけではなく、ある種の、ときにはひどく顕著な誤解をしていましたが、それとてまったく彼が特に無能なせいではなく、性格が呑気だからにすぎませんでした。
すべてを深く究める暇がなかったからです。
『わたしは文官というより、むしろ軍人気質なものでしてな』
こう彼は自己を形容していました。
農奴解放の正確な根拠に関してさえ、彼はいまだに最終的な確かな知識を身につけていないようで、いわば年々、心ならずも実際面で知識をふやしてゆくことによって、認識しているらしかったのですが、それにもかかわらず当人は地主なのでした。
この一文はまるで私自身の過去をみるように思いました、仕事を積極的に覚えようとせず、実務を仕方なくやっているうちに自然に覚えるだろうという呑気な考えなのです、しかしこんなことまで物語の中に挟み込まれているとは驚きます。

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