すでにモスクワからとんでくる車中で、彼は「スメルジャコフ」のことや、出発の前夜、彼と交わした会話のことを、ずっと考えていました。
これは、(557)で「イワン」がチェルマーシニャ経由でモスクワに行こうとしている前日、「フョードル」に家に帰宅した時に木戸口にいた「スメルジャコフ」と交わした会話、「『どうだ、親父(おやじ)さんは。眠ってるか、それもと目をさましたかい?』自分でも思いがけなく、彼は低い声で神妙に言うと、これもまったく思いがけなく、ひょいとベンチに腰をおろしました。一瞬、恐怖に近い気持をおぼえたのを、彼は後日思いだしました。」の部分ですね。
多くのことが心をかき乱し、多くの点が疑わしく思われました。
しかし、予審調査官に証言する際、「イワン」はその会話のことはしばらく黙っていることにしました。
「スメルジャコフ」に会うまで、すべてを延ばしたのです。
「スメルジャコフ」はそのころ、市立病院に入っていました。
医師の「ヘルツェンシトゥーベ」と、病院で会った医師「ワルヴィンスキー」は、「イワン」の執拗な質問に対して、「スメルジャコフ」の癲癇は疑う余地がないことを、きっぱりした口調で答え、「惨劇のあった日、彼は仮病を使っていたんじゃありませんか?」という質問に、びっくりしてさえいました。
この「ワルヴィンスキー」は、(779)で登場しましたね、「ペルホーチン」が「マカーロフ」の家を訪ねたときブリッジをやっていた、ペテルブルグから赴任してきたばかりの青年で、ペテルブルグ医科大学を優等で卒業した人物ですね。
医師は二人とも、この発作がむしろ並大抵のものではなく、数日にわたってつづき、くりかえされたため、患者の生命はまったく危険にさらされていたことや、いろいろ処置を施した結果、現在ではもう病人は生命に別条はないと確言しても差支えないことを、「イワン」に理解させようとし、もっとも患者の理性が「一生涯ではないまでも、かなり長期にわたって」ある程度乱れたままになることも、大いにありうるだろう、と「ヘルツェンシトゥーベ」が付け加えました。
「すると、あの男は今、狂ってるんですか?」という「イワン」の性急な質問に対しては、「完全な意味でそうだとは言えませんが、ある種の異常は認められます」という返事でした。
「イワン」は、それがどういう異常か、自分で突きとめることに決めました。
病院ではすぐに面会を許されました。
「スメルジャコフ」は別病棟に入っており、ベッドに寝ていました。
隣にもう一つベッドがありましたが、そこに寝ているのは、水腫で全身にむくみができて、衰弱しきったこの町の町人で、見るからに明日か明後日は死ぬ定めらしいため、会話を邪魔する気づかいはありませんでした。
「イワン」を見ると、「スメルジャコフ」は疑り深そうに薄笑いをうかべ、最初の瞬間、怯えさえしたようでした。
少なくとも、「イワン」にはちらとそう思えました。
しかし、それはほんの一瞬のことで、その後はずっと、「スメルジャコフ」はむしろ逆に、冷静な態度で「イワン」をほとんどおどろかせました。
最初の一瞥で「イワン」は、相手が完全な極度の病的な状態にあることを、疑う余地なく信じました。
すっかり衰弱し、舌を動かすのもやっとのような、ゆっくりした話し方でした。
ひどくやつれ、黄色くなっていました。
二十分の面会の間ずっと、頭痛と手足の痛みを訴えつづけていました。
去勢僧のようなひからびた顔がすっかり小さくなってしまったような感じで、鬢の毛は乱れ、前髪の代りに細い髪が一房だけ突き立っていました。
しかし、何かを暗示するように細められた左目は、以前の「スメルジャコフ」そのままでした。
『賢い人とはちょっと話してもおもしろい』
「イワン」はとたんにこの言葉を思いだしました。
彼はベッドの足もとにある丸椅子に腰をおろしました。
「スメルジャコフ」は苦しそうにベッドの上で全身をわずかに動かしましたが、自分から口を切ろうとせずに黙っており、それに今度はもうたいして興味もなさそうな顔をしていました。
「俺と話をしても大丈夫か?」
「イワン」はだずねました。
「せいぜい疲れさせないようにするよ」
「大丈夫でございますよ」
「スメルジャコフ」が弱々しい声で言いました。
「だいぶ前にお帰りになりましたので?」
どぎまぎしている訪問者をはげますかのように、彼は余裕のある態度で言い添えました。
「今日帰ったばかりだ・・・・ここの騒ぎを片づけるためにな」
「スメルジャコフ」は溜息をつきました。
「どうして溜息なんぞつくんだ、お前にはわかっていたんだろう?」
「イワン」はいきなり不用意に言いました。
「スメルジャコフ」は重々しげにしばらく黙っていました。
「どうしてわからずにいられますか? 前もってはっきりしていましたからね。ただ、こんな結果になるなんて、わかるはずがございませんでしょうに?」
「こんな結果になる、だと? ごまかすんじゃない! 現にお前は穴蔵へ行けばとたんに癲癇が起きると、予告したじゃないか? ずばり穴蔵と、場所まで言ったんだぞ」
(558)で「スメルジャコフ」は「・・・・わたしはきっと明日、長い癲癇が起るにちがいないと思ってるんです」と言っています、(559)では癲癇の原因を「屋根裏からでないとすれば、穴蔵へ落ちるでしょうね。穴蔵へも毎日行きますから。自分の用事で」と予告しています、そして「かりにわたしがそんな芸当までしかねないとしても、つまり、経験のある人間にとっちゃいたって簡単なことですから、仮病を使うかもしれないとしても、その場合だって、わたしの生命を死から救うためにそんな手段を用いるのは、しごく当然の権利でございますからね。」とまで言っていました。
「そのことを、尋問の際にもう証言なさったんですか?」
「スメルジャコフ」が落ちつきはらって探りを入れました。
「イワン」はふいにかっとなりました。
「いや、まだ証言してはいないが、必ず証言するさ。お前は今すぐにいろいろのこと釈明せにゃならんぞ。俺に対してふざけた真似は許さんから、承知しておくんだな!」

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