「イワン」は両手で耳をふさぎ、床を見つめたまま坐っていましたが、全身をふるわせはじめました。
声はなおもつづいていました。
「ところで問題は、やがてそういう時期の訪れることがありうるか、どうかだと、わが若き思想家は考えた。もし訪れるなら、すべては解決され、人類は最終的に安定するだろう。しかし、人類の根強い愚かさからみても、おそらくまだ今後千年は安定しないだろうから、現在でもすでにこの真理を認識している人間はだれでも、まったく自分の好きなように、この新しい原理にもとづいて安定することが許される。この意味で彼にとっては《すべてが許される》のだ。それだけではなく、かりにそういう時期が永久に訪れぬとしても、やはり神や不死は存在しないのだから、新しい人間は、たとえ世界じゅうでたった一人にせよ、人神になることが許されるし、その新しい地位につけば、もちろん、かつての奴隷人間のあらゆる旧来の道徳的障害を、必要とあらば、心も軽くとび越えることが許されるのだ。神にとって、法律は存在しない! 神の立つところが、すなわち神の席なのである! 俺の立つところが、ただちに第一等の席になるのだ・・・・《すべては許される》、それだけの話だ! 何から何まで実に結構な話ですな。ただ、ペテンにかける気を起したのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞ必要なんだろう、という気はするけどね? しかし、現代のロシア人てのは、こうなんだね。裁可がなければペテンをする決心もつかないんだ、それほど真理がお気に召したってわけさ・・・・」
「イワン」は全くの何ものにも束縛されない自由を望んでいるのですね、「人類が一人残らず神を否定する」時期が来るとすると、それを認識している人は精神が安定していられる、つまり《すべてが許される》ということで、もし仮にそういう時期が来なかったとしても、神や不死を否定している人間は、つまり新しい人間は自分が神になるのだということでしょう、歴史の中で神が死んでしまい新しい人間が生まれるか、神を否定する新しい人間になるかということです。
「裁可」とは許可を与えられることです、「悪魔」は「イワン」のこのような意見をペテンだと言っています、たしかに子供騙しのような都合のいい理屈です、現代のロシア人はこんなことでさえ「裁可」が必要だと言っていますが、誰に対して「裁可」を求めるのでしょうか。
客は明らかに自分の雄弁に酔い、ますます声を張りあげて、からかい面に主人をちらちら眺めながら、話していました。
しかし、しまいまで話すことはできませんでした。
「悪魔」の態度が徐々にその姿を現そうとしているような時なので、このあとの「悪魔」の言葉が聞きたいと思うのですが、うまく逃げられました。
「イワン」が突然テーブルの上のコップをつかみ、ふりかぶりざま弁士に投げつけたからです。
「ああ、しかしそいつは愚劣だよ、要するに!」
客はソファから跳ね起き、お茶のしずくを指で払いながら、叫びました。
「ルーテルのインク瓶を思いだしたのかい! (訳注 ルーテルも幻覚に苦しみ、悪魔にインク壜を投げつけたことがある。イワンの幻覚はルーテルの場合に似ていると言われている)自分じゃ僕を夢と見なしておきながら、夢に向ってコップを投げつけるなんて! 女みたいだぜ! 耳をふさいだふりをしてるだけで、実はきいているんだと、ちゃんと僕は予想していたよ」
「ルーテルのインク瓶」つまりマルティン・ルターのことですが、ネットで検索すると、ルターが悪魔にインク瓶を投げつけた為に出来たという伝説で有名なインクの染みが今でも残っているアイゼナハのヴァルトブルク城は1999年に世界遺産に登録されており、また、『ルターは言語学に長けた悪魔カイムと論争を繰り広げたり、悪魔に向かってインク瓶を投げつけたことがあるという伝説がある。また、ルターは便秘に悩まされていた為か、人の肛門には悪魔が住み着き、便秘の原因は悪魔のせいであると主張したことがある 』とも書かれていました。
突然、外から窓枠を強く執拗にノックする音がきこえました。
「イワン」はソファからとび起きました。
「きこえるだろ、開けたほうがいいよ」
客が叫びました。
「あれは弟のアリョーシャが、まったく思いがけない、興味深い知らせを持ってきたんだ、僕が請け合うよ!」
「黙れ、いかさま師め、あれがアリョーシャだってことくらい、お前に言われなくてもわかってる。予感してたんだ。そりゃ、もちろん、わけもなしに来るはずがないから、《知らせ》を持ってきたにきまってるさ!」
この「イワン」の思っていることが、そのまま「悪魔」の発言になるのですね。
「イワン」は狂ったように叫びました。
「開けてやりたまえ、開けておやりよ。外は吹雪だし、君の弟じゃないか。どんな天候だか知ってるのかい、君? こんな天候じゃ、犬だって外に放すわけにいかないよ・・・・」
ノックはつづいていました。
「イワン」は窓のところにとんで行こうとしかけました。
しかし、ふいに何かに手足を縛られたかのようになりました。
縛(いまし)めを解こうと必死に力をふりしぼりましたが、むだでした。
窓のノックがいっそう強く、大きくなりました。
やがて突然、縛めが断ちきれ、「イワン」はソファの上で跳ね起きました。
やはり、夢だったのですね。
彼はふしぎそうにあたりを見まわしました。
蝋燭は二本ともほとんど燃えつきかけ、たった今客に投げつけたはずのコップは目の前のテーブルにのっていて、正面のソファにはだれもいませんでした。
これで、「悪魔」が夢の中の存在であったことがわかりましたね。
窓枠をノックする音は執拗につづいてこそいましたが、たった今夢の中できいたほど大きな音ではなく、むしろ非常に遠慮がちでした。
「あれは夢じゃない! 違うとも。ほんとにあれは夢じゃなかった。何もかもたった今あったことなんだ!」
「イワン」は叫ぶと、窓のところにとんで行き、通風口を開けました。
「アリョーシャ、ここへは来るなと言ったはずだぞ!」
彼は憤然として弟をどなりつけました。
「一言で言え、何の用だ? 一言だぞ、いいな?」
「一時間前にスメルジャコフが首を吊ったんです」
外から「アリョーシャ」が答えました。
「表階段にまわれ、すぐ開けるから」
「イワン」は言って、「アリョーシャ」に戸を開けてやりに行きました。

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