2016年12月6日火曜日

250

「ラキーチン」の言いたいことは次のようなことです。

「アリョーシャ」の兄さんたち、つまり「ドミートリイ」と「イワン」ですね、彼らと金持の親父さん「フョードル」との間に犯罪が起ることになり、「ゾシマ長老」は将来万一起こるかもしれない犯罪のために、おでこをこつんとやっといたんだと。そして、あとで何か起れば、『ああ、そういえば長老さまが予告してらした。予言なさっていたっけ』ということになる、しかし、そうは言ってもおでこをこつんとぶつけることに、どんな予言があるのだろうか、それでもみんなは、いや、あれは象徴だったんだとか暗喩(アレゴリー)だとか何とか、わけのわからないことを言うだろう、そして、犯罪を予見しただの、犯人を見ぬいただのとほめちぎられて、記憶にとどめられるって寸法だよ、神がかり行者(ユロージヴィ)なんてみんなそうさ、酒場に十字を切ったり、寺院に石をぶつけたりするんだ、君の長老だってそうだ、敬虔な信者を杖で追い払うかと思や、人殺しの足もとにおじぎしたりするんだから、と。

「ラキーチン」は思っていることを全部言ってしまいましたね。

つまり、カラマーゾフ家の中で殺人事件が起ると。

それに、「ドミートリイ」のことを「人殺し」とまで言っています。

しかし、家族間でいくらいがみ合っていようと、たとえば多少の暴力沙汰は生じたとしても普通は殺人まで連想しないと思いますが、「ラキーチン」には彼らの性格や行動における余程の確信めいたものがあるのでしょう。

そして、この会合からだけではなく、すでに、この家族間の諍いは最終的には殺人まで行ってしまうかもしれないという雰囲気がこの町じゅうにあったのでしょう。

それにしてもこの段階での「ラキーチン」の極端な発言内容は、不自然な気がします。

「ラキーチン」といえば、この修道院と僧団の庇護を受けている未来の神学者なのですが、彼の発言を聞くかぎりでは、ずいぶんと「ゾシマ長老」を侮辱する言葉を発していますね。


そして神がかり行者のことをペテン師呼ばわりしているところをみれば、彼は未来の神学者として、宗教を否定する立場なのでしょうか、彼自身が修道院の庇護を受けていることからも、ちょっとそれは考えられないのですが。


2016年12月5日月曜日

249

「ラキーチン」は「ゾシマ長老」が「ドミートリイ」に跪拝したことを二度も「あの夢」と言って表現しています。

これはどういう意味でしょうか。

現実離れしていて夢のようなということでしょうか、おそらくそうだろうと思いますが、普通日常的には、現実に起こったことをそのように言ったりはしないと思いますが、親しい友人どおしの会話の調子の中で使われただけのことかもしれません。

しかし、「ラキーチン」はこの後の会話で自ら話すように、大胆な予想をしているのですから、この夢というのは、未来を先取りした不吉なものになります。

「アリョーシャ」は、「あの夢」が何を意味しているか自分は知らないよ、「ミーシャ」と言います。

「ミーシャ」というのは、「ラキーチン」のことですが、はじめてここで彼の愛称が使われています。

この小説の中の他の登場人物についても愛称が使われることが多いのですが、愛称を使う時は親しみをこめた時だけにかぎらず、微妙に本名との使い分けがされるときがあって、この辺はどちらかを使うかによって相手に伝えようとする何かが違ってくるのかどうか、またそのような相互理解の了解があるのかどうか、文化の相違かもしれませんがわかりにくいと思うことがあります。

「ラキーチン」は、「あの夢」がどういう意味であるかを長老が「アリョーシャ」には説明するはずがないから、知らないのは当然で、長老の跪拝はいつものこけおどしにすぎない、しかし、あの手品はわざと仕組んだもので、今にこの町や県内一帯の信者たちが『あの夢は何の意味だろう?』と言いだすに違いなく、「僕にいわせると、あの老人、たしかに炯眼だよ。犯罪を嗅ぎつけたものな。君の一家は不吉な匂いがするもの」

「犯罪」と、「ラキーチン」は核心をついてしまいましたね。

そして、「あの夢」を長老が「アリョーシャ」には説明するはずがないというのは、犯罪の当事者の家族なので彼にはそんなことは話せないということです。

「アリョーシャ」は「犯罪って、どんな?」と聞きます。


あきらかに「ラキーチン」は何事か言ってしまいたいという様子でした。


2016年12月4日日曜日

248

彼は林道の両側にそびえる千古の松を眺めました。

道はせいぜい五百歩くらいでした。

「千古の松」とは大げさな表現ですね、「五百歩」は400mくらいです。

この時間、つまり昼食時前後ですが、誰もこの道は通らないはずではありましたが、小道の最初の曲り角でだれかを待ち受けているらしい「ラキーチン」の姿がありました。

「僕を待ってたんじゃないの?」と「ラキーチン」と並ぶと「アリョーシャ」はたずねました。

「まさしく君をさ」と「ラキーチン」はにやりとしました。

そして、「院長さんのところへ急いで行くところだろ。知ってるよ、会食だってね。大主教とパハートフ将軍とをお迎えしたあの時以来、こういう会食はついぞなかったな。僕は行かないけど、君は行って、ソースでも注いでまわれよ。ところで、一つだけききたいんだけどさ、アリョーシャ、あの夢はいったいどういう意味なんだい?それをききたかったんだよ」

「パハートフ将軍」はネットで調べても出ていませんでした。

「ラキーチン」はここで、「アリョーシャ」も疑問に思いながらも長老に聞けなかった、そして読者にも明確には知らされていないあの謎の跪拝のことを聞きます。

そして、作者はこのあと「ラキーチン」を通して、この物語の種あかしとも言えるような発言をさせます。

それは、読者がうすうす感じていることなのですが、ここで作者は明確にそれを提示してみせ、読者の予測の先回りをしているのです。

「何の夢さ?」と「アリョーシャ」が聞きます。

「ほら、君の兄さんのドミートリイに対するあの最敬礼さ。おまけに、おでこをぶつけてたじゃないか!」と。

「ゾシマ長老の話?」

「そう、ゾシマ長老のことさ」

「おでこを?」


「あ、失礼な表現だったな!なに、失礼でもかまうもんか。ところで、あの夢は何を意味してるんだい?」


2016年12月3日土曜日

247

「アリョーシャ」の顔にまたしても強い反応があらわれました。

唇の端がふるえました。

これは、「ゾシマ長老」に、自分の死後は修道院から出て行けと言われたからではなく、長老が自分の死をあと何時間かと語ったことに対する反応です。

長老は、それを見て「どうしたな、また?」と静かに微笑しました。

そして、「俗世の人なら故人を涙で送るのもよいが、ここにいるわれわれは去りゆく神父を喜んであげねばならないのだよ。喜んであげ、その人のために祈ってあげるのだ。さ、わたしを一人にしておくれ。お祈りをあげねばならないから。行きなさい、急いでな。兄さんたちのそばにいておあげ。それも一人だけのそばにではなく、どちらのそばにもな」と。

このような状況のもとでも、「それも一人だけのそばにではなく、どちらのそばにもな」と付け加える「ゾシマ長老」はすばらしいのですが、会合の主役である「フョードル」と「ドミートリイ」はすでに不在です。

長老は祝福するために片手をあげました。

「アリョーシャ」は残っていたくてなりませんでしたが、逆らうわけにはいきませんでした。

彼は『兄ドミートリイへのあの跪拝は何を意味しているのですか?』という質問が舌の先からこぼれそうになりましたが、たずねる勇気はありませんでした。

そのようなことは差支えがないのであれば、質問などされなくても、長老が自分から説明してくれることを彼は知っていました。

ということは、長老には説明する意志がないということです。

それは、つまり、差支えがあるということなのでしょう。

あの跪拝は「アリョーシャ」をほんとうにひどく驚かせました。

彼はその行為に神秘的な意味があると信じていました。

神秘的な、そしてことによると恐ろしい意味かもしれないと彼は思いました。

院長のもとでの昼食の開始にまでに修道院に行きつけるよう、彼はそこで食卓の給仕をするためだけなのですが、僧庵の囲いを出たとき、死を予言した長老の言葉が、すぐ前でふたたびひびいたような気がして、ふいに胸が苦しくしめつけられ、その場に立ちどまりました。

長老が、あれほど正確に予言したことなら、疑いもなく起るにちがいありませんでした。

「アリョーシャ」は神聖な気持でそれを信じていましたが、長老がいなくなったら、どうして自分がここに残っていられようか、どうして長老の姿も見ず、声をきかずにいられようか、そして、自分はどこへ行くのだろうか、泣かずに修道院を去れと長老に命じられましたが、ああ神さま!、と、彼は久しくこれほどの淋しさを味わったことがありませんでした。

彼は僧庵と修道院をへだてている林の中を足を早めて歩きだしましたが、内心の思いを堪えることができませんでした。


それほど、自分の思いに心を圧しひしがれていたのです。


2016年12月2日金曜日

246

「ゾシマ長老」に自分が神さまに召されたらすぐに修道院を出るのだ、すっかり出てしまうのだよ、と言われた「アリョーシャ」はびくりとふるえました。

この「すっかり出てしまうのだよ」という言葉は徹底していますね。

きっぱりと全面的に関係を持つな、ということですね。

「ゾシマ長老」は続けます。

「どうした?お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさんの遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう、当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送りだすのだ。お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ–これがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。今日以後、わたしのこの言葉を肝に銘じておくといい。なぜなら、これからもお前と話をすることはあるだろうが、わたしの余命はもはや日数ではなく、時間まで限られているのだからの」

「ゾシマ長老」は、「アリョーシャ」を送り出し、再び戻ってくると言っています。

そして、自分の遺言として「アリョーシャ」に話した言葉。

–「悲しみのうちに幸せを求めよ」–

また、–「働きなさい、倦むことなく働くのだよ。」–

これらの言葉を「肝に銘じておくといい」と。


ここは、これらの言葉自体が強い力を放っていて、私は一言も言葉を添えることができません。


2016年12月1日木曜日

245

七 出世主義者の神学生

「アリョーシャ」は長老を寝室に連れてゆき、ベッドに掛けさせました。

長老の寝室はごく必要な家具だけを配した非常に小さな部屋でした。

狭いベッドは鉄製で敷布団の代りにフェルトが一枚敷いてあるだけでした。

片隅の聖像のわきには経卓が置かれ、その上に十字架と福音書がのっていました。

長老は力なくベッドに崩折れました。

目がかがやき、呼吸も苦しげでした。

すっかり腰をおろすと、彼は何か思いめぐらすように、まじまじと「アリョーシャ」を見つめました。

そして、自分のことなら「ポルフィーリイ」でも間に合うから急いで院長さまのところへ行きなさい、お前は向うで必要な人間だから行くがよい、院長さまのところへ行って食事の給仕をしてきなさい、と言いました。

「ポルフィーリイ」という名前ははじめて出てきましたが、庵室で「アリョーシャ」とともに長老に脇にいた見習い僧ですね。

「アリョーシャ」は、「どうか、このままここにいさせてください」と哀願するような声で言いました。

「お前は向うでいっそう必要な人間なのだ。向うには和がないからの。お前が給仕をしていれば、役に立つこともあろう。諍いが起ったら、お祈りするといい。そして、いいかね、息子や(長老は彼をこう呼ぶのが好きだった)、将来もお前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ」と長老は言った。

長老の言う「お前のいるべき場所はここではない」という言葉は意味深長ですね。


これはどういうことでしょうか。


2016年11月30日水曜日

244

この会合は、とんだ騒ぎになり、怒って帰ってしまったり、参加しないと言う人も出現した予想以上にめちゃくちゃな会合となってしまったわけですが、昼食会には「それでも、みんなで向った。」とのこと。

「みんな」とは「ミウーソフ」と「イワン」と「カルガーノフ」と案内の修道僧です。

修道僧は道々、「ミウーソフ」と「イワン」のする内輪話を黙ってきいていました。

もっともこのふたりとも修道僧が近くにいて聞こえることがわかっていながら無神経に会話しているだけですが。

林をぬけてゆく途中、たった一度、修道僧が言いました。

それは、もうだいぶ前から修道院長がお待ちかねで、三十分以上も遅れているということでした。

修道僧も二人が自分たちの保身のための言い訳のことばかり考えていて、ずっと待っている修道院長たちのことを何も思いやることもしないので忠告の意味をこめて言ったのでしょう。

それでも、ふたりは返事をしませんでした。

ふたりとも自分のことしか考えてなくて、修道院長もこの修道僧のことも無視しているのですね。

「ミウーソフ」は憎しみをこめて「イワン」を眺めやりました。

そして、『まるで何事もなかったような顔で、食事に行くんだからな!』と彼は思いました。

『よほど鈍いし、カラマーゾフ的良心てやつだな』

「ミウーソフ」が「イワン」のことをこのように思っていることは驚きました。

同じカラマーゾフの一族でも「イワン」は「フョードル」と全く性格が違っており、「ミウーソフ」は以前に何度か「イワン」と話もしており、ある程度は親近感があるように想像していましたが、ここでは「カラマーゾフ的良心」と言う言葉で一族を同類視しています。


ここで「カラマーゾフ的」というのは、カラマーゾフの一族、「フョードル」と「ドミートリイ」と「イワン」と「アリョーシャ」の四人ですが、この四人に共通する負の面での特徴のことで、これは、いろいろな要素があると思いますが、「ミウーソフ」の言うこの「カラマーゾフ的良心」というのは、いろいろある中で、厚顔無恥つまり恥知らずということを意味していると思われます。