2016年5月17日火曜日

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ここで再び「わたし」が出てきます。
そして、なぜ「イワン」の論文の内容のことにまで立ち入って書いたのかを説明します。
それは、この町の郊外にある有名な修道院にこの論文が広まり、「わたし」は「めんくらった」からなのです。
それと、その筆者がこの町の出身者で《ほかならぬあのフョードル》の息子であることにも驚かされました。

この町の修道院とは、長男「ドミートリイ」を引き取ったヨーロッパ通の「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が漁業権とか伐採権とかで訴訟を起こしていたあの修道院です。

当時(1864年)、裁判制度改革にともなって宗教裁判の改革も検討されていて大いに議論を呼んだそうですので、この修道院も「イワン」の論文に興味を持ったのでしょう。

小説の舞台になるこの町の見取り図があれば、これからの展開がわかりやすくなると思うのですが、もうどなたかが作ってネットに公開されているかもしれませんね。

それからあまり関係はないのですが、この町の名前は、ずっと後の方で書かれています。

「スコトプリゴーニエフスク」という長ったらしい名前です。


そんな時に、この長ったらしい名前の町に、突然、「教会裁判をめぐる問題」の作者であって《ほかならぬあのフョードル》の息子である「イワン」が姿をあらわしたのです。


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