2016年5月26日木曜日

56

そして、「アリョーシャ」が、この修道院に入ったことには重大な理由があります。

それは、この修道院に有名な「ゾシマ長老」がいたことです。

彼の「充たされることを知らぬ心」は、はじめての熱烈な愛情のすべてを「ゾシマ長老」に捧げるほどに彼に心服したのです。

それは、彼が心の中で思っただけではなく、自ら修道院に飛び込んで行ったという思い切った行動が示しています。が、しかし、作者は、少し突き放して微妙に含みのある表現をしています。

「ゾシマ長老」は「彼の考えによれば当代まれに見る人物である」と、「アリョーシャ」の個人的な趣向による熱狂ぶりと言わんかのように、少し遠くから客観的に見ているようです。

そして、「彼がごく幼いころを皮切りに、当時もすでにたいそう変わった人間だったことに対しては、わたしも異論はない」と続き、変わり者の彼だから、そして、生まれてはじめて熱狂するような対象が見つかったのだから、そのように夢中になったのは無理もないというような書き方です。

ここで、「わたし」が出てきているのですが、この「わたし」は「アリョーシャ」を客観的に見ている「わたし」であり、彼の幼いころをよく知っている「わたし」でもありますから、前に出てきたこの町の住人のひとりであるらしい「わたし」とは違って、作者の心情そのものにごく近いところにある「わたし」になっています。


0 件のコメント:

コメントを投稿