《わたしのソフィヤ》が亡くなって3ヶ月後に「ヴォロホフ将軍の未亡人」が行動を起こします。
まるまる8年ぶりで、憎き「フョードル」と面会する場面です。
「町ですごしたのは全部でせいぜい三十分かそこらだったのに、多くのことをやってのけた」のですが、この表現は次に続く内容そのものを端的に表していて小気味がいいです。
「ヴォロホフ将軍の未亡人」がその家を訪ねたのは夕刻のことでした。
酔っ払った「フョードル」が出てきましたがその時、「何の説明もなしにいきなり、したたか音のする頬びんたを二発くらわせ、前髪をつかんで三度下に引きおろし」ました。
そして、「一言も付け加えずに」さっさと召使小屋に行きます。
そこで、「子供たちが行水も使わされず、汚い下着でいることを一目で見ぬくと、夫人はすぐに当のグリゴーリイにまで頬びんたを見舞い」ました。
「グリゴーリイ」は忠実な奴隷らしく、この理不尽な暴力に口答えひとつしませんでした。
「ヴォロホフ将軍の未亡人」は二人の子供を「膝掛けにくるんで、馬車に乗せ、自分の町に連れ戻」りました。
読んでいてイメージがみずみずしく思い浮かんでくるようなすばらしい展開です。
夕刻から酔っ払っていた「フョードル」はともかくとして、忠僕「グリゴーリイ」にまで頬びんたというのは、とんだ迷惑ですが、彼は去りゆく「ヴォロホフ将軍の未亡人」の馬車を見送りながら最敬礼をして「お子さま方に代って、神さまがきっと償いをなさってくださいますでしょう」と言います。
この言葉は、この小説の今後を暗示するような重要な言葉と思われますが、ここで作者は「ヴォロホフ将軍の未亡人」に次のようなとんでもない言葉を言わせます。
「とにかくお前は抜作(ぬけさく)だよ!」
ちなみに「抜作」をネットの辞書で調べると「間抜けな人をあざけっていう語」というのが、一番多く出てくるのですが、少し違和感を感じます。
少なくともこの小説中の使用では、少し突き放した中に暖かみがあるように思います。
ついでに、この台詞は他の人の翻訳ではどうなっているか調べてみました。
米川正夫訳は「なんといったってお前は阿呆だよ!」
中山省三郎訳は「それにしてもやはりおまえが間抜けなのだよ!」
亀山郁夫訳は「それにしても、あんたはどがつくほどの阿呆だよ!」(「ど」の上に強調の黒丸付き)
私にとっては、原卓也訳の「とにかくお前は抜作だよ!」が一番しっくりきます。
「ヴォロホフ将軍の未亡人」はそう言って、馬車で立ち去りながら「グリゴーリイ」に「夫人は一喝くらわせた」のです。
ただただかわいそうなのは、忠僕「グリゴーリイ」です。
この捨てぜりふは、長年ずっと、愛憎並存する心持ちでこの家の様子を監視していた「ヴォロホフ将軍の未亡人」ならではの言葉でしょう。
たぶん、主人の好き勝手な行動を身近で知っている「グリゴーリイ」に対するイライラ感の爆発です。
この辺のくだりは、かみ合わない言葉のやりとりがおかしくもあり、反対にそれだから強力な現実感を感じます。
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