2016年6月14日火曜日

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ここからはしばらく「フョードル」のことです。

「二度目の妻の死後、三、四年間というもの、彼はロシア南部におもむき、」と書かれていますが、この部分は米川氏と亀山氏の訳では、死後三、四年経ってからロシアの南部に行ったとなっています。

それから最後にオデッサに数年間腰を据えました。

オデッサはウクライナの南部の黒海に面した大きな貿易都市でした。

「フョードル」自身に言わせれば、最初は《大勢のちんけなユダヤ人の男女》と知り合いになり、最後は《れっきとしたユダヤ人の家にも迎えられる》までになったとのことです。

彼は生涯のこの時期にお金を貯める才覚を身につけたようです。

ユダヤ人といえば、前にも出てきましたね。

「ソフィヤ・イワーノヴナ」と結婚するときに、たぶん卑劣な手口の仕事だったのでしょうが、たぶんユダヤ人と組んで彼女のいる県にいたのです。

オデッサをWikipediaで調べるといろいろと面白いことが書かれてありました。
ちょっと長くなりますが、自分の興味のある部分だけ抜き書きします。

「オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている。 ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた。20世紀のオデッサ出身の作家スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない人だった」と説明している。」
「ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている。」
「1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツの占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。」
「ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサではユダヤ人の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ。18世紀後半のポーランド分割後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた。1870年代以降オデッサでは二度の大規模なポグロムが発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている。」
(ポグロムとは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。)

他にもエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』で有名な大きな階段があることや、プーシキン博物館 があったり、オペラ・バレエ劇場のことなど、文化面でも書ききれないくらい魅力のある町です。

ひとつだけ加えますと、ウクライナ人を父に持つ昭和の大横綱、大鵬の銅像がオデッサ市沿海地区に建てられているそうです。


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