酔払っいのお喋りは、「しかし、俺はお前と別れるのが淋しくてならんよ」と、少々泣き言も入ってきて延々と続きます。
彼は自分のように愚かで罪深い人間のために祈ってくれるような奇特な人がこの世の中にいるのだろうかと、常々考えており、お前が修道院に入ったら「ちょうどいい機会」だから祈っておくれというようなことを言い出します。
独白はこのへんから、支離滅裂になってきて「俺が死んでも、悪魔たちが鈎で引き寄せるのを忘れる、というわけにはいかんものだろうかと思うのさ」「鈎だなんて?」悪魔がどこから鈎を手に入れるのだろうか、「材質は何だ?鉄だろうか?」だったら、やつらのところにも工場かなにかがあってそこで作るのだろうか」などと。
そして、地獄の天井の話になります。
修道院の坊さんたちは、地獄に天井があると考えているが、自分が仮に地獄を信じたとしても、そこに天井があるとすると「せっかくの地獄が何かこう、垢ぬけた文化的な、つまり、ルーテル派式のものになっちまうからな」と言います。
本筋から外れますが、「フョードル」はなぜ、「垢ぬけた文化的な」地獄を「ルーテル派式のもの」と形容したのでしょう。
「ルーテル派」をネットで調べればいろいろ出てきますが、いちばん簡単なのは「はてなキーワード - はてなダイアリー」で、「1517年、宗教改革者マルティン・ルターによって生まれた、プロテスタント(新教)の一派。」という説明されています。
これでは、1860年代のロシアから見た「ルーテル派」の地獄感などさっぱりわかりませんし、もっと詳しい説明をいくつか読んでみたのですが「ルーテル派」のどこが「垢ぬけた文化的」であるのかわかりませんでした。
「フョードル」の話に戻ります。
彼は地獄に天井があるのとないのでは大違いで、問題はそこにあると言います。
「だってさ、もし天井がないんなら、つまり、鈎もないってわけだ。」と。
「フョードル」は、地獄に天井がなければ、悪魔が持つ引っ掛け鈎の存在もない、ということは地獄そのものがないんだから、神もいないんじゃないかということを言っているのでしょう。
なんだか、酔払いのたわごとではありますが、何だか神の存在にかんする重たい内容になってきています。
0 件のコメント:
コメントを投稿