この章はほんとうは、「ゾシマ長老」の紹介の章ですが、作者はよほど、「アリョーシャ」の容貌や性格についての説明をここでしたかったのしょう。
それも、◯◯は◯◯であると読者は考えるかもしれないが、そうではなくて実は◯◯なのである、という形式を3度も繰り返しています。
ひとつ目は先に見たように「アリョーシャ」は病的で虚弱な夢想家であると読者は思うかもしれないが、そうではなくて実は、均斉のとれた身体つきの美男子であり・・・です。
そして、ふたつ目です。
「アリョーシャ」の赤い頬は狂信や神秘主義のあかしではないかと考える人もいるかもしれないが、そうではなくて実は、誰にもまして「現実主義者だったような気がする。」と「わたし」は言っています。
ここで出てくる「現実主義者」には、「リアリスト」というルビがふられています。
作中に出てくる「わたし」は彼が「現実主義者だったような気がする。」と過去形を使っているのが気になります。
この小説は13年前を振り返るという形で書かれているので、13年後に「アリョーシャ」の身に何かあり、彼のことを知っている「わたし」が昔を振り返っているのです。
しかし、「第二の小説」は書かれませんでしたので、詳細は不明です。
ここで言う「現実主義者」は、現実にそくして物事を判断する人と、考えていいでしょうか。
彼は修道院に入ってから「全面的に奇蹟を信じてはいた」とのことです。
しかし、「わたし」は「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」と。
0 件のコメント:
コメントを投稿