それにしても「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」とはどういうことでしょうか。
また、「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」とはどういうことでしょうか。
これは、現実主義者は現実にそくして物事を考えるわけですから、目の前で起こった奇蹟をたんに現実と考えるだけということではないでしょうか。
そして、作者は続けます。
「現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。」と。
これも、同じ理由で、つまり、現実主義者の奇蹟はこれも現実ということだけで、それと信仰とは関係がないということではないでしょうか。
次に続きます。
「真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟も信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。」
このあたりは、信仰とか奇蹟とかの話になっているのですが、信仰をもたない者にとっては実感として理解するのはむずかしいですね。
「信仰をもっていなければ」ということは、神の存在を信じなければということですが、神を信じない現実主義者であれば、その段階ですでに信じないという力を自分の中にもっているわけであり、奇蹟が起こったとしてもそれが現実であると理解するより、自己の感情の欠損として、その感情を否定するということでしょうか。
そして、「また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるにちがいない。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。」
この現実主義者にとって「奇蹟が信仰から生まれる」というのは、奇蹟も信仰も同じことのように考えると、意味のないことを言っているように思えます。
これは、つまり、理屈ではなく、最初に信仰のあるなしがあるということを言っているのでしょうか、現実主義者である「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」ということはそういうことなのでしょうか。
結局、作者の言いたいことは、現実主義者だから神を信じないということへの反論なのでしょうか、よくわかりません。
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