現実主義者が信仰を信じたら、奇蹟も現実主義者として認めるはずです。
そして、使徒トマスは、「自分の目で見るまでは信じないと明言したが、いざ見るに及んで、『わが主よ、わが神よ!』と言った。」そうです。
この部分は注釈が付いていて「十二使徒の一人トマスはキリストの復活を信じようとせず、『わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れてみなければ信じない』と言ったが、八日のちにイエスの姿を見て『わが主よ、わが神よ』と言った。ヨハネによる福音書第二十章」ということです。
ヨハネによる福音書からの引用は冒頭にもありましたね。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第12章24節)」です。
少し長いですが、使徒トマスを「Wikipedia」で調べてみます。
使徒トマス(Thomas the Apostle, 生年不詳 - 72年12月21日)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモ (Didymus) は「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ (Фома)。
福音書の一部写本や外典に「ユダ・ディディモ」とあり、本名ユダのあだ名とも考えられる。「双子」の名がなぜ付いたか、誰と双子なのかは不明。
使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、『ヨハネによる福音書』に以下の記述があるのみである。
『ヨハネによる福音書』では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。(ヨハネ11:16参照)ヨハネ20:24-29ではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。これを西ヨーロッパでは「疑い深いトマス」と呼ぶ。この故事は後世、仮現説に対し、イエスの身体性を示す箇所としてしばしば参照された。またトマスの言葉はイエスの神性を証するものとして解釈された。そのような解釈では、トマスの言動はイエスが神性・人性の二性をもつことを証ししたと解される。
そして、作者は奇蹟が使徒トマスに信仰をいだかせたのではないと言い切っています。
「彼が信じたのは、もっぱら、信じようとねがったからにすぎない」。
さらに、作者は彼が「自分の目で見るまでは信じない」と述べたそのときから、全面的に信じていたのかもしれないと言っています。
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