「アリョーシャ」はこの世の真実はこうなんだということをよく知っていたんだと思います。
つまり、ロシアの民衆は、日常的な不公正や、自分自身の罪、全世界の罪などにいつも苦しめられており、しかし、それだからこそ、穏やかな魂も持ち合わせており、何か「聖物なり、聖者なりを見いだして、その前にひれ伏し、礼拝する以上の、慰めや欲求など存在しない」ということです。
つまり、祈るしかなかったということですね。
次に二重鍵括弧でこう書かれています。
『かりにわれわれに罪悪や、不正や、悪の誘惑があるにせよ、やはりこの地上のどこかに神聖な、最高の人がいることに変わりはない。われわれの代りに、その人のところに真実が存在し、その人が代りに真実を知っておられるのだ。してみれば、真実がこの地上で滅びることはないわけだし、つまりは神の約束なさったとおり、そのうちに真実がわれわれのところにもやってきて、全地上に君臨するようになるのだ』
「アリョーシャ」は民衆がこのように感じ、判断していることがわかっていました。
そして、「彼自身も、感涙にむせぶ百姓や、自分の子供を長老の方にさしだす病身の女たちといっしょに、長老こそまさにその聖者にほかならず、民衆の目に映じた神の真理の守護者なのだということを、いささかも疑わなかった。」
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