長老が亡くなった時には並みはずれた栄誉を修道院にもたらすであろうという確信は、修道院の中でもぼちぼち聞かれましたが、実は「アリョーシャ」が一番そう思っていたのかもしれませんでした。
そして、彼の心の中には「ここのところずっと、一種の深い、炎のような内面的な歓喜」がますますはげしく燃えさかっていました。
それは「アリョーシャ」の夢と言っていいものでした。
それは次のようなことです。
しかし、その前に、「ゾシマ長老」は日常的に接している彼の前では、一個の人間ではありましたが、それは、彼にとってはどうでもいいことでした。
『同じことだ。長老は聖人で、御心の中には万人にとっての更生の秘密と、最後にこの地上に真実を確立する力とが隠されているのだ。やがてみんなが聖人になって、互いに愛し合うようになり、金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって、あらゆる人が神の子となり、本当のキリストの王国が訪れることだろう』と、「アリョーシャ」はこんな夢を心に描くのでした。
幸福とか充実とか人生の満足感とか、他にもいろいろと言い方はあると思いますが、たとえば地位や名誉や財産などがそのような気持ちを抱かせることはよくあることでしょう。
個人的な価値観の違いによって、幸福とか充実とか人生の満足とかいうものは、人それぞれで一様ではありませんが、程度の差こそあれ、だいたい似たり寄ったりです。
つまり、最高の生活をしていても、また最低の生活状態であっても、人はそれぞれ幸福感を持てるということです。
ここで言っているのは、そのような幸福感のことではないのです。
現実では実現されることはめったにありませんので、わからない人は見向きもしないような話です。
しかし、想像力を総動員し、また、少しでもそれに近い経験をしたことがあれば、わかりやすいかもしれませんが、「アリョーシャ」が心に描く夢、「金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって」というのは、そのような幸福感や満足度と全然、質が違うのです。
これは、全くわかりにくいことではありますが、そして、順番をつけるのはよくないと思う人もいるかもしれませんが、他のことで得られる幸福感より「アリョーシャ」が心に描く夢、「金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって」の方が、高レベルなのです、いや、同じ段階の話ではなくて、別物と言った方が正しいでしょう。
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