2016年8月25日木曜日

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「フョードル」は自分を無神論者の「ディドロ」になぞらえているのですね。

「フョードル」によると、「ディドロ」がロシアの「プラトン主教」を訪ねたとき、彼は部屋に入るなり『神はいない』と言ったそうです。

これに対して、偉大な「プラトン主教」は、指を一本立てて、『心狂える者はおのれの心に神なしと言う!』と答えたそうです。

そして、これを聞いた「ディドロ」は「プラトン主教」の足もとにひれ伏して、『信じます、洗礼も受けます』と叫んで、その場で洗礼を受けた、そういう話です。

彼の教母には、ダシコワ公爵夫人(訳注 女帝の側近)、教父にはポチョームキン(訳注 女帝の寵臣)がなったとか(訳注 ディドロは1773年にロシアを訪問、エカテリーナ女帝に進歩的改革を進言した。プラトン主教とのこの話は、ディドロの無神論を否定する反動的な貴族の間で作られたものである)・・・とのことです。

この注釈では、1773年にディドロはロシアを訪問となっていますが、「アンリ・トロワイヤ」の『女帝エカテリーナ(上)』(中公文庫)を見ると、クーデターから9日目にエカレリーナ2世はディドロをペテルブルグに招待して、《百科全書》の続きを出版するように言って断られています。前にも書いたように「『百科全書』完結後の1773年、ロシアを訪問した。」という資料もあり、本当のことはわかりませんが、『女帝エカテリーナ(下)』(中公文庫)を見ると、1773年5月に出発し、1774年3月に帰路に着いたと詳しく書かれていますのでこちらが正しいのでしょう。いずれにせよ、「ディドロ」は、何ヶ月かエカレリーナ2世に直接会っていろいろと助言を与えたようですが、それは多岐にわたってはいましたが、ロシアの現実には適合しないものであり、エカレリーナ2世にとっては、世間知らずの十歳の子供のようだとの印象を持ったりもしているのです。
また、『女帝エカテリーナ』には、ロシア訪問時に「ダーシュコヴァ」(「ダシコワ公爵夫人」)と会った「ディドロ」は彼女について、芸術文化の教養には深く感銘を受けていますが、容姿についてはこれ以上ないくらいめちゃめちゃに書いているとあります。

「ダシコワ公爵夫人」は、「エカテリーナ女帝」の側近ですが、Wikipediaによれば、「エカテリーナ女帝」は「ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。」という説明の中で「英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人」として説明され、「1766年、現在音楽院のある土地を、後に科学アカデミーとロシア・アカデミーとなるエカテリーナ・ダシコワ公爵夫人が購入。建築はバジェノフの設計により1790年代に終わる。ダシコワ公爵夫人はここで毎冬を過ごしました。1810年に甥の、ボロジノ戦の英雄ミハイル・ヴォロンツォフが相続。1812年に火災がありましたが24年に修復。1871年にモスクワ音楽院が建物を借り、1878年に購入しました。」ともあります。

次に「ポチョームキン」です。

彼も「エカテリーナ女帝」の説明のところで出ています。

「私生活面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる男性愛人を抱え、夜ごと人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。1774年頃(45歳頃)、10歳年下のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれる。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。「2人は極秘裏に結婚していた」「エカチェリーナ46歳の時(1775年)に2人の間には実娘エリザヴェータ・ポチョムキナ(ロシア語版)が産まれた(後にカラゲオルギ将軍と結婚し、その末裔は現在も実在する)」などの説があり、かなり信憑性のある史料(近年公表された女帝直筆の恋文等)からもそういう事実があったことが窺えるが、真相は今も研究中である。2人に男女の関係がなくなった後も「妻と夫」であり続け、エカチェリーナの男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の閨房に送り込んでいたという。互いの信頼関係は長く続いたが、1791年ポチョムキンは任地に向かう途中で倒れ、女帝に先立って病没した。晩年のポチョムキンは女帝から遠ざけられ、失意のうちに死去したとされるが、女帝は「夫」の訃報に「これからは1人でこのロシアを治めなければならないのか」と深く嘆き悲しんだという。ポチョムキン以降に女帝が関係を持った寵臣のほとんどは、公的な影響力を持たなかった。例外として、アレクサンドル・ランスコーイは美貌だけでなくそれなりの能力もあり女帝を補佐し、しかも国家や宮廷の問題には関与せず、女帝の寵愛も深かったが、1784年に26歳の若さで急逝した。また、エカチェリーナ最晩年の寵臣プラトン・ズーボフは、ポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は、老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外大した能力はなく、女帝の死と共に失脚した。」


以上の2名は、実在の人物ですが、偉大な「プラトン主教」は、わかりませんでした。


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