修道僧は「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の言葉を聞いて、「青白い血の気のない唇に、一種ずるそうな感じの多少ある、微妙な無言の微笑がうかんだが、何とも返事をしなかった。自尊心から沈黙を守ったことは、あまりにも明らかだった。」そうですが、文学でしか表現できないなんとも細やかな描写ですね。
「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は修道僧の微妙な態度に気づいたからでしょうか、いっそう眉をひそめました。
そして、「えい、くたばりやがれ、こんなやつら。何世紀もかかってやっと作りあげたような顔をしてやがるけど、実際は偽善とでたらめじゃないか!」という思いが頭の中をよぎったのでした。
彼は自由主義者ということですから、このような宗教的な権威やそれを背景としたすべてのことに対抗し反発する意識を持っているのでしょう、この修道院内においてもかなり挑戦的な態度です。
一方、「フョードル」も「礼儀正しく振舞おう」と約束したにもかかわらず、はじめから発言はあぶなっかしい要素を含んでいるように思えます。
「フョードル」いわく、「あれが僧庵だ、やっと着いたな!塀をめぐらして、門を閉めきってあるな」。
そう言って、「門の上や横に描かれている聖者たちに、大仰な十字を切りはじめた。」のです。
もう、ここまでで、すでに道化的要素が自ずから出てきてしまっているように感じますが、さらにエスカレートします。
「フョードル」は「人それぞれに流儀あり、と言うけれど・・・」と余計な軽口をたたきながら、「ここの僧庵じゃ全部で二十五人もの聖人が行を積んでらして、互いににらめっこをしては、キャベツばかり食べてるんだそうだ。・・・」
もう、すでに完全に馬鹿にしている言い草ですね。
そして、ここの僧庵には、「女性は一人もこの門をくぐれないというんだから、これが特に立派な点さね。実際そうなんだからね。ただ、ちょいと小耳にはさんだところだと、長老はご婦人にお会いになるそうですな?」と、突然に修道僧に問いかけました。
「フョードル」は全く神に敬意など払っていないのでしょう、理論で無神論者になった者よりもこっちの方が根っからの無神論者かもしれません。
修道僧は質問されたことについて説明します。
それによりますと、たしかに、平民の女性は渡り廊下のわきに寝て、長老を待っていますし、渡り廊下の囲いの外に身分の高い婦人のために小部屋が二つ設けてあって、その窓がここから見えていますが、長老が元気なときには内廊下を通ってその小部屋のところにいらっしゃいますが、あくまでもそれは囲いの外というわけらしいです。
今もハリコフ県の地主でホフラコワさまという婦人が衰弱しきったお嬢さまをお連れになって待っているとのことです。
それは、たぶん長老が会うと約束をしているからでしょう、最近は、会衆のところへ出かけるのもやっとという状態でありますが、と修道僧は答えました。
0 件のコメント:
コメントを投稿