長老の言葉に対して、「フョードル」はまるで「ふざけているのか、それとも本当に感動しきっているのか、容易には決めかね」ぬような内容のことを喋ります。
「わが家にいるように楽にしろ、ですって?つまり、ごく自然な態度でよろしいので?ああ、もったいない、それじゃもったいなさすぎます。でも、感激してお言葉に甘えさせていただきます!ですが、長老さま、ごく自然な態度になどど、わたしを挑発なさらないでください、危険を冒すのはおやめになったほうが・・・わたし自身だって、自然な態度にまでは、とてもなれるものじゃございませんよ。これは、長老さまをお守りするために、あらかじめご注意申しあげているんです。まあ、そのほかのことは依然として未知の闇に包まれていますけどね、もっとも、なかにはわたしを漫画に仕立てあげようと望んでる人もいるようですが。これは、ミウーソフさん、あんたのことを言ってるんですよ。それから長老さま、あなたさまには、これこのとおり、歓喜の情を吐露します!」
そう言って、「フョードル」は中腰になり、両手を上にあげて、唱えます。
それに続く発言は圧巻だと思います。
「汝を宿せし母胎は幸いなるかな、汝を育てし乳首は幸いなるかな、特に乳首こそ!(訳注 ルカによる福音書第十一章にある言葉をもじったもの)長老さまは今『そんなに自分のことを恥ずかしく思わぬことだ。それがすべての原因なのだから』とご注意くださいましたが、あの一言でわたしという人間をすっかりお見通しになり、肚の底までお読みになった感がございますね。まさにそのとおりで、わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思いこんでるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。わたしが道化なのも、そんなわけなんでして、羞恥心ゆえに道化になるんです、長老さま。もとはと言えば羞恥心が原因でして。あばれたりするのも、もっぱら猜疑心のせいなんです。だって、かりにわたしが入っていっても、みんながすぐにわたしを感じのよい聡明な人間と見なしてくれると確信さえしていたら、わたしだってそのときはさぞ善良な人間になることでしょうからね!わが恩師!」
訳注で、(ルカによる福音書第十一章にある言葉をもじったもの)とありますが、あえて文語体の『ルカ傳福音書』、第11章27節を調べましたら「此等のことを言ひ給ふとき、群衆の中より或女、聲をあげて言ふ『幸福なるかな、汝を宿しし胎、なんぢの哺ひし乳房は』」とあります。
(・・・もじった)というのは、「特に乳首こそ!」の部分ですね。
こんなことは、どの訳にも書かれていません。
そして、彼はひざまづいて言います。
「永遠の生命を受けつぐには、わたしはどうすればいいのでしょう?」と。
「フョードル」の一連の発言は、どこまでが本気でどこまでが道化ているのかわかりませんね。
こういう曖昧さのある発言を聞く「ゾシマ長老」もやりきれないと思いますが、さすがに多くの人を見てきた人だけあって対応はすばらしいです。
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