2016年9月11日日曜日

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長老が民衆の前に立ち、これから奇蹟がはじまろうとしています。

「アリョーシャ」がなんの疑問も感ずることなく、感動するという場面でしょうか。

誰かが、癲狂病みの女の両手をひいて、長老の方へ連れてきました。

「女は長老をひと目見るなり、何やらわけのわからぬ金切り声をあげて、ふいにしゃっくりをはじめ、ひきつけでも起こしたように全身をふるわせだした。彼女の頭にストールをあてて、長老が短いお祈りを唱えると、女はすぐに鳴りをひそめ、おとなしくなった。」そうです。

そして、ひさしぶりに文中に「わたし」が登場します。

「このごろはどうか知らないが、」と前置きして、「わたし」が子供の頃は、よく村や修道院などでこういう癲狂病みの女を見たり、きいたりした、礼拝式に連れてこられると大きな悲鳴をあげたり、犬のように吠えたりするのだが、「聖餐が運ばれ、そこへ連れていかれると、とたんに《狂乱》がやんで病人はいつもしばらくの間おとなしくなる」のでした。

子供だった「わたし」は、非常に感動し、おどろいたものでした。


日本でも「狐憑き」と言って、修験者や巫者がお祓いをすると治まったりしましたが、これとよく似ています。


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