2016年9月12日月曜日

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子供のころの「わたし」は、癲狂病みの女が、一瞬の間におとなしくなる様子を見て、非常に感動し、おどろいたものでした。

しかし、「そこらの地主たちや、特に町の学校の先生など」は「わたし」の質問に答えて、そんなのは働きたくないための仮病を使っているのであり、厳しくしつければ治るんだと言って、その例をいろいろ聞かせてくれました。

こんな話は現在でも、どこかにあるような話ですね。

そして、「わたし」はその後、「専門の医学者たち」から聞いておどろいたのですが、これは仮病ではなくて、わがロシアに多く見られる、恐ろしい婦人病で、「何の医学的な助けもない、正常を欠く苦しいお産のあと、あまりにも早く過重な労働につくために生ずるのであり、いわばわが国の農村婦人の悲惨な運命を証明する病気だ」ということでした。

また、他の原因として、「やり場のない悲しみとか、殴打とか、その他、一般の例から言っても女性の性質いかんではやはり堪えきれぬようなことがあればそうなるとのことです。

このような、「狂乱してもがきあばれている女を聖餐のところへ連れてゆくだけで、ふしぎにもたちどころに癒るのにしても、あれは仮病だとか、《僧権強化論者》たち自身がやってのける」手品とか説明されてきました。

しかし、そんなことも、「おそらく、やはりごく自然に起るのだろうし」、①聖餐のところへ病人を連れてゆく百姓女や、②病人自身が、聖餐のところへ行って礼拝すれば、とりついている悪魔が追い払われるということを、絶対的に信じきっているからなのです。

このことは重要なことだと思います。

「だからこそ、聖餐に跪拝する瞬間」、「心身の組織全体の痙攣とも言うべきものが生ずる(また生ずるのが当然なのだ)のであり、これは必ず起る治癒の奇蹟への期待と、奇蹟が実現することへの完全な信頼とによってひき起こされる痙攣」なのです。

「そして奇蹟は、たとえごく短い間だけによせ、実現」するのです。

「ちょうど同じように、今も長老が病人にストールをかけるやうなや、奇蹟が実現」しました。


このような心の状態は、閉じられた小さな共同体の中で、その構成員全体があることを信じこんでいるということが条件となると思いますが、現れる形は違っていても地球規模の大きな共同体でも知らぬ間にそういうことはあるかもしれませんね。


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