2016年9月15日木曜日

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「ゾシマ長老」は遠来の女が泣いているところをどこかで見たのでしょうか、それとも女の心の中を察してそう言ったのでしょうか。

女は、悲しみのわけを、ここにやってきた理由を説明します。

自分には、あと三ヶ月で三歳になる息子がいたのですが亡くなってしまいました、不憫でなりません、息子のことを思うとせつなくてなりません、わたしと「ニキートゥシカ」の間には四人の子供がいましたが、みんな亡くなりました、うちでは子供がうまく育ってくれないのです、上の三人をとむらったときはそんなに不憫ではなかったのですが、最後の子は忘れることができず、まるですぐ目の前に立っているようです、離れ去ってくれません、心が疲れはててしまいました、あの子の小ちゃな肌着やシャツや長靴などを見ると泣けてきます、泣き暮らしております、わたしはうちの人に「ニキートゥシカ」に自分を巡礼にだしとくれって申しました、うちの人は辻馬車の馭者ですが貧しくはありません、貧乏ではないのです、一本立ちの馬車屋で馬も馬車も自前です、でも、今となっては、財産なぞが何になりましょう、わたしがいなければ「ニキートゥシカ」はたがが弛んで、前にもそうでしたが、酒に溺れはじめるにきまっています、「でも今ではうちの人のことも思っておりません、家を出てもう足かけ三ヶ月になりますので忘れてしまいました、何もかも忘れてしまいましたし、思いだしたくもございません。いまさらあの人とどうなるというのでしょう?あの人とのことは終ったんです。だれもかれも、もうおしまいです。今じゃ自分の家も財産も見たいとは思いませんし、まるきり何も見る気はございません!」

子供を失った喪失感から深い悲しみに落ちています。

時間が解決するといえば簡単ですが、彼女の場合は違うかもしれません。

彼女は、夫のことも含め、ここには書かれていませんが、他にいろいろなことが背景にあって、それは時間で解決できるようなことではなく、このへんできっぱりと自分の中で納得しなければ、前に進めないのではないでしょうか。


さあ、「ゾシマ長老」はどのような話をするのでしょうか。


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