2016年9月30日金曜日

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その修道僧は、「見るからに、ごく普通の修道僧、つまり、しごくありふれた身分の出で、浅薄な揺るぎがたい世界観をもち、信仰心篤く、ある意味で頑迷な修道僧」のようでした。

この修道僧の場合は一応関係者ですから、祝福を与える順番としては、一番最後なのだと思います。

「ゾシマ長老」は、順番に言うと、①癲狂病みの女の気持ちを落ち着かせ、②息子を亡くした「ナスターシュシカ」に「慰め」を求めることをやめさせ、夫のもとに帰るようとに言い、③音信不通の息子を心配する「プローホロヴナ」に息子の健在を約束し、④病床の夫にしてはならないことをして死を恐れている農婦に恐れることはないと言って聖像をかけてやり、⑤乳呑児を抱いた健康そうな農婦が長老の健康を心配してやってきたので祝福を与え、⑤三日前に面会して二度目になる「ホフラコワ夫人」と娘と会話し、⑥今この遠来の修道僧に声をかけたのです。

彼は、遠い北国のオブドールスクにある修道僧が九人しかいない貧しい修道僧、聖シルヴェステル寺院からやって来たと名乗りました。

この修道僧は、年をとっていると、前に書かれていましたね。

「ゾシマ長老」は、「彼に祝福を与え、都合のいいときに庵室に寄ってくれるよう」招きました。

修道僧は「よくこんなことをなされるもんですね?」といさめ顔で、ものものしい態度で「リーズ」を指さしながらたずねました。

それは、彼女の《快癒》をほのめかしているのでした。

この修道僧は、「ゾシマ長老」を疑っているようですね。

しかし、ここで一般人だけでなく、修道院の関係者も登場させていることは、話に多面的なふくらみを与えていると思います。

長老は、快方に向かうということは、まだ快癒したことではないし、ほかの原因からも起こりうることであるから、今のような話をするのはもちろんまだ早すぎます、「ですが、かりに何かが生じたとすれば、神の御心による以外、だれの力によるものでもござりませんからな。すべて神の御業です。」、どうぞお寄りになってください、神父さん、と言いました。

これは、さりげないが、すばらしい説明の仕方です。

「ゾシマ長老」はさらに続けて、こうしてお招きするのも、いつでもというわけにはゆかず、というのは、自分は病身で、余命いくばくもないことを承知していると言います。


今度は、修道僧の二歩隣にいるという「ホフラコワ夫人」が、そんな話はとんでもない、いつまでも永生きなさいます、とてもお元気で快活でお幸せそうに見えますがどこがお悪いのですか、と聞きました。


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