2016年10月1日土曜日

184

「ゾシマ長老」は、自分はもう自分の病気のことがはっきりとわかっているので、今はいつになく楽ではあるが、それもしばらくの間だけとわかっている、そして、もし自分が快活そうに見えるのだとしたら、そう言われることほど、自分にとって嬉しいことはない、なぜなら「人間は幸福のために創られたのですし、完全に幸福な人間は、自分に向かってはっきり『わたしはこの地上で神の遺訓をはたした』と言う資格があるからです。すべての敬虔な信者、あらゆる聖者、あらゆる尊い殉教者は、みな幸福だったのです」と言いました。

ここの部分はなかなかむずかしく、理解しがたいところです。

神が人間を作った目的として、幸福のためというのは、罪を犯す以前の楽園の人間のことで、わかるような気がします。

その神の当初の目的どおり幸福である人間が、敬虔な信者、聖者、殉教者というということは、神を完璧に信ずることができた者ということですから、罪を背負った人間でも神を信じれば救われるということですね。

しかし、不信心な人間は幸福ではないかと言えば、それにはここでは触れられていませんが、不信心な人が幸福だと言っても、それは偽りの幸福ということになるのでしょうか。


このような信に対する疑問については、次に「ホフラコワ夫人」が長老にたずねています。


0 件のコメント:

コメントを投稿