続けて「ゾシマ長老」は言います、あなたは真剣に話してくれましたが、それがもし私に賞めてもらいたいだけのことであったとすると、「実行的な愛の偉業という面では、何物にも到達できない」であろうし、「もしそうだったら、すべてがあなたの空想の中にとどまるだけで、一生が幻のようにちらと過ぎ去ってしまうでしょう。この場合はもちろん、来世のことも忘れはてて、しまいにはなんとなく自分自身に満足してしまうことになるのです」と。
これはなかなかわかりにく表現です。
「ホフラコワ夫人」が「賞めてもらいたい=報酬」だけのことで話したのだとすると、ただ「一生が幻のようにちらと過ぎ去」り、「来世のことも忘れ」て、「なんとなく自分自身に満足」するということですが、これは否定すべきこととして言われていることなのでしょうか。
現代人の価値観からすれば、一生が幻のようで、なんとなく自分で満足できるような生き方ならば、人生において良しとするのではないでしょうか。
地に足のついた生き方をして、これで良かったのだと完全に満足できるような人生というのは、望むべくもありません。
なんとなく自分に満足することすら、困難なのではないでしょうか。
「ゾシマ長老」はここで、神を信じて善を行うものと、神を信じてはいるが善を行わないものとの違いを述べているのだと思います。
そうして前者は、幸福に行き着き、後者はそこそこの幸せで終わるということを語っていると思います。
いずれにせよ、神を信ずるものの内部での話であり、それでは、神を信じておらず善を行うものと、神を信じておらず善も行わないものについては、どうなるのか、「ゾシマ長老」に聞いてみたい気がします。
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