2016年10月11日火曜日

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「ホフラコワ夫人」は、「まあ、恐れ入りました!今この瞬間になってやっとわかりましたわ」と言います、そして続けて、先ほど忘恩には堪えられないと話したときは「あなたのおっしゃったとおり、自分の誠実さに対するお賞めの言葉だけを期待していたのでございます。あなたはあたくしに、自分の本当の心をひそかに教えてくださり、あたくしの心を捉えて、説明してくださったのです!」と。

私はなかなかわからなかったのですが、「ホフラコワ夫人」はたいへん理解力のある人だと思います。

「ゾシマ長老」は「本心からそうおっしゃるのですか?」と夫人の真意を確認してから、そうだとすると、今こそあなたが誠実で心の善良な方だということを信じます、「かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように務めることですな。肝心なのは、嘘を避けることです。いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。自分の嘘を監視し、毎時毎分それを見つめるようになさい。」、そして、他人にも自分にも嫌悪の気持ちをいだいてはならず、心の中で自分が疎ましく思えるということは、あなたがそれに気づいたということですので、すでに清められているのです、そして、恐れというのは、いっさいの嘘のもたらす結果でしかありませんので、恐れは避けるようになさい、「愛の成就に対するあなた自身の小心さを決して恐れてはなりませんし、それに際しての間違った行為さえ、さほど恐れるにはあたらないのです。何一つあなたを喜ばせるようなことを言えなくて残念ですが、それというのも、実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ。空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ、あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、賞めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが、実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。しかし、あらかじめ申しあげておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこう近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して始終ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきり見いだせるようになれるのです。」と。

長い引用になりましたが、この部分は、さすがだとか、すばらしいとかいう表現では言い表せないくらいであり、恐ろしさを感じさえします。

ここでも、やはり「フョードル」に繰り返し何度も言ったように、自分自身に対して嘘をつかないように言っています。

「愛の成就」に際しての「間違った行為」というのは、ここでは、夫人が自分の内心の告白の正直さを賞められることを求めたように、相手からの見返りだけを目的にした行為のことを指しており、そんなことは「さほど恐れるにはあたらない」と言い切っています。

そして、「実行的な愛」と「空想的な愛」の比較をして、「実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なもの」と言い、最終的に「神」を見出すところに到達するのですが、その過程で、目的から遠ざかっていると感じたり不安をおぼえることがあったりしても瞬間的に目的に達していることがあると言います。


このことは、ある意味で普遍性を持ち、それゆえに「神」の概念さえ再考すべきものとして曖昧になってくるような気がします。


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