2016年10月20日木曜日

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「イワン」は続けます。

というわけで、将来の目的は、論敵の言葉を借りるなら、「教会が『あらゆる社会的団体』や『宗教的目的のための人々の結合体』として国家の中に一定の地位を求めたりすべきではなく、むしろ反対に、あらゆる地上の国家がゆくゆくは全面的に教会に変るべきであり、それも教会と相容れぬ目的をことごとく排除したあと、教会になるほかないのです。」そして、そのことは、「なんら国家の価値を低めるものでもなければ、大国としての名誉や栄光、支配者の栄誉などを奪うことにもならず、むしろ、異教国家という虚偽の誤まった道から、もっぱら永遠の道へのみ導く真の正しい道に引きもどしてくれる」、ですから、かりに『教会的社会裁判の原理』の著者が、その原理を探求し、その提言が、未完成で罪深い途上にあるわれわれにとっては、必要である一時的なものであるというのなら、その判断は正しい、しかし、この原理の著者が提言し、先ほど「イォシフ神父」が数えあげた原理こそ、不可避的な揺るぎない永遠の原理だと明言するのですから、もはや真っ向から教会に反し、その神聖な揺るぎない永遠の使命に逆らうことになったのです。「これが僕の論文であり、その概要です」と。

『教会的社会裁判の原理』との本の名前は、ここになって出てきましたが、著者の名前はずっと出てきませんね。

「イワン」は「国家」が「教会」になるべきで、そうなっても「国家」の価値は下がらないというのですが、前と後ろで「国家」を見る視点のすり替えがあるように思いますが。

「イワン」の言っていることは、極端なことで、ここまで言うのなら聖職者になった方がいいのではないかと思います。


論敵の聖職者より、「イワン」の方がずっとキリスト教的というか、突き抜けていて、もし彼のいうようにこの世が全部教会になれば、キリスト教も国家も共に雲散霧消してしまうような気がします、それともキリスト教だけが残るのでしょうか、そして、その世界がどのようなものになるのか想像できません。


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