2016年10月25日火曜日

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「ミウーソフ」は好奇心をまざまざと示して「それはどういうことです、お教えいただけますか?」と、「ゾシマ長老」にたずねました。

つまり、「・・・おのれの良心に存する本当の懲罰のこと」を聞いたのでしょう。

「つまり、こういうことです」と長老は話はじめました。

ここからは、長老の長い話です。

昔は、笞刑まであったのですが、こうした懲罰とかはだれをも更生させません。肝心な点は、ほとんどの犯罪者に恐怖心を起させないので、年を追うごとに犯罪の数は増えてゆくばかりです。この事実にはあなたも同意せねばなりません。つまり、そんなわけで社会はまったく守られていないのです。なぜならば、かりに有害な分子を機械的に隔離して、目に入らない遠いところへ追放したとしても、すぐそのあとへ別の犯罪者が、ことによると一度に二人も現れてくるからです。「かりに、今のような時代にさえ社会を守り、当の犯罪者をも更生させて、別の人間に生れ変わらせるものが何かしらあるとすれば、それはやはりただ一つ、おのれの良心の自覚の内にあらわれるキリストの掟にほかなりませぬ。キリスト社会、すなわち教会の息子として、おのれの罪を自覚してこそはじめて、その人間は社会そのものに対する、つまり教会に対する罪も自覚するのです。」というわけで、犯罪者が罪の自覚をしうるのも国家に対してではなく、教会に対してなのです。「だから、もし裁判が教会という社会に属しているとしたら、そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいか、わかっているはずです。」ところが、現在、教会は実質的な裁判を持っていませんから、精神的な非難の可能性を有しているだけで、犯罪者に対する実質的な処罰からはみずから遠ざかっています。犯罪者を破門することもなく、父親としての訓戒をして、見すてずにいるにすぎません、そればかりではなく、犯罪者に対してキリスト教会としての交わりを保つように努め、教会の勤行や聖餐式にも出席させてやり、施し物も与えているという具合で、罪人というよりむしろ捕虜のような扱いをしています、と。

まだ、長老の発言の途中ですが、このあたりで何やらわからなくなってきました。

教会が裁判をおこなえば、「そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいか、わかっているはずです。」ということですが、教会は、破門という判決を下した人間の心の中までわかっているということでしょうか。

そして、今は教会は裁判から遠ざかっているので、すべての犯罪者に対して破門という判決は行わず、見守ってあげているとうことなのでしょうか。


たとえば、異教徒は破門でしょうし、残忍な凶悪犯は破門されるかどうかわかりませんが、いずれにせよ教会がキリストの掟に従った厳密な裁判を行えば、ある意味で非常にきびしいものになるのではないでしょうか。



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