2016年10月26日水曜日

209

「ゾシマ長老」の話は続きます。

今、市民社会の法律が犯罪者を排斥し隔離しているのですが、もしも教会も同じように、そういう人間を排斥したら、その犯罪者はいったいどうなることでしょう、「ああ、恐ろしいことです!もし、教会までが、国法の懲罰にひきつづいてそのたびに破門の罰を下すとしたら、いったいどうなります?これ以上の絶望はありますまい、少なくともロシアの犯罪者にとって。というのは、ロシアの犯罪者はまだ信仰を持っていますからの。」と。

この「ゾシマ長老」の問いかけは、少し前に「イワン」が「あなたにひとつ伺いますがね、破門された人間はそうなったらどこへ行けばいいんです?・・・」と「ミウーソフ」に聞いたこととまったく同じですね。

「ゾシマ長老」も同じ問いを発し、「イワン」の言葉とは少し違う言葉を使って「・・・これ以上の絶望はありますまい・・・」と言っています。

そして、「イワン」の話の内容をそのまま引き継いだかのように、さらに次のように言葉を続けます。

かりに社会からも教会からも見放されると、ことによると恐ろしい事態が生ずるにちがいありません、おそらく、犯罪者の絶望的な心の中で、信仰の喪失が生ずるに違いありません。「そうしたら、どうなります?」と。

「そうしたら、どうなります?」と聞く「ゾシマ長老」の意図するところがわかりません。

今を生きる私たちのほとんどの者がまさに、そういう状態におかれており、そうではない状態を想像することもできないくらいに無自覚になっていますので、この「ゾシマ長老」の問いに答えることはむずかしいのではないでしょうか。

しかし、犯罪者の良心ということを考えると、信仰をもっていなくてもそれは当然に存在するわけで、その基盤が宗教ではないということは、なんかふらふらとさまよう良心であり、それが不安や謂れのない恐怖の原因にもなるのでしょうが、反対にその良心が自分で培ってきた信念によって確固たるものになっている場合もあるのではないでしょうか。


しかし、その信念が信仰に打ち勝つほど強いものであるかどうかはわかりませんし、また、その信念を作り上げた共同的な基盤の強度がどれほどのものなのかなど疑問はたくさんありますが。


0 件のコメント:

コメントを投稿