2016年10月27日木曜日

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「ゾシマ長老」の話の続きです。

教会は愛情豊かなやさしい母親のように、実際的な懲罰を避けています。罪人はすでに国家の裁判によって手ひどく罰せられており、だれか憐れんでやる者が必要なのです。「教会が懲罰を避けるいちばんの主な理由は、教会の裁判こそが真実を内に蔵する唯一のもの」であるので、他のいかなる裁判とも本質的、精神的に違うのです。教会は、たとえ一時的であっても妥協はしませんし、闇取引きもしません、と。

ということは、教会の裁判の中には懲罰という言葉はないということですね。つまり、キリストの教えの中には精神的な破門はあっても、肉体に痛みを与えると考え方はないということですね。

犬や猫などの動物ならば痛みを与えることである程度は行動を規制することができるのは事実ですが、それと同じように人間の一面である動物的な部分に直接刺激を与えて矯正するという考え方はすでに否定されています。


程度にもよるかもしれませんが、懲罰で与えられる肉体的な痛みというのは、通常は一時的なもので過ぎ去りますが(しかし、肉体的な痛みが精神的なものに与えることもあるので一概には言えませんが)、精神的な痛みというのは、これも程度にもよりますが、一生背負うことが多いと思います。


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