2016年10月28日金曜日

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「ゾシマ長老」の長い話は続きます。

外国の犯罪者はめったに後悔しないそうだ。理由は現代の教育が、不当に迫害する勢力に対する犯行であると教えているから。社会は圧倒的な力で機械的にそういった人間を隔離し、(少なくともヨーロッパの人たちは、自分でそう語っていますよ)そのような追放を憎しみの目で見送る。そして、自分たちの兄弟であるその人間の将来の運命に対して完全な無関心と忘却とによって追放している。このようなことが教会の同情なしに行われている。なぜなら、あちらでは教会なぞはもはやなくなっており、寺男と壮麗な建物だけが残っている。ずっと以前から、教会という低級な種から国家という高級な種への進化を志していて、ゆくゆくは国家の中に消滅し去ろうとしている。少なくともルーテル派の国々ではそのように見受けられる。ローマでは千年の間、教会に代って国家があがめられている。「だからこそ犯罪者自身も教会の一員としての自覚を持っておらず、隔離されると絶望におちいってしまう」。かりに社会へ戻っても、強い恨みを抱いていることが多く、社会のほうで疎外するような形になってしまう。「こんなことがどういう結果に終るか、ご自分で判断できるでしょう」。多くの場合、わが国でも同じような気がするにちがいない。しかし、わが国にはまだ教会が存在する。「たとえ心の中だけにせよ、教会の裁判も立派に存在し、保たれておって、これが現在は実際的なものでなくても、やはり将来のために、心の中だけにせよ生きつづけており、しかも犯罪者自身にも心の本能によって疑いもなく認められている」。先ほど、この席で言われたことは正しいことで、つまりもし全社会が一つの教会になって、教会の裁判が実現して、力を十二分に発揮するようになれば、現在では考えられぬほど犯罪者の矯正に影響を与えるばかりか、おそらく実際に犯罪そのものも、信じられぬくらいの割合に減少するにちがいない。教会は未来の犯罪者や未来の犯罪を今日とは違うふうに理解するので、追放された者の復帰や悪事をもくろむ者への警告、堕落した者の更生などもできるはずだ、そして、「もっとも」と。


ここで、長老は微笑を洩らしました。


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