「ホフラコワ夫人」は「ゾシマ長老」が、あなたの悩みの真剣さは十分信じていると言ってくれたことに感謝し、自分がよく目を閉じて思うことがあって、それは「みんなが信じているとしたら、いったいどこからそれは、生じたのか」ということだと言います。
そして、ある人は、それはすべて最初は恐ろしい自然現象に対する恐怖から起ったと説きますが、しかしもしそんなふうに一生信じつづけたとして、いざ死んでしまえば、ふいに何一つなくなり、ある作家のもので読んだように『墓の上には山ごぼうが生い茂るのみ』ということになったら恐ろしいことです、「いったい何によって信仰を取り戻せるでしょうか?」あたくしが来世を信じていたのは、ごく幼いころだけで、何も考えず、ただ機械的に信じていたときだけです、と。
『墓の上には山ごぼうが生い茂るのみ』と書いた作家は誰かと、調べてみましたがわかりませんでした。
しかし、この「ホフラコワ夫人」の発言は、当時の唯物論的な影響を受けているかもしれませんが、そうでなくとも、多くの人が一度は心の中で思ったことがあるかもしれない正直な告白ですね。
「ホフラコワ夫人」は死んだら死に切りということを恐れています。
しかし現代人のほとんどは、死んだら肉体も精神も消滅すると思っています。
そして、そのことを恐れていません。
たしかに、来世があると考えた方が「死」に対する恐怖心は少なくなるでしょう。
死んで何も残らないとすれば、「生」自体、虚しくなるかもしれません。
では、現代人は「死」への恐れはないのでしょうか、そんなことは忙しくて普段考えないから実感がわかないのでしょうか。
しかし、直接的に考えないまでも、人間は生きている以上、「死」について、自分自身で納得する方向に向かって、無意識的な領域において考えつづけているように思うことがあります。
そして、自分では気付かなくとも、その都度、何らかの結論めいたものを出しており、その中に恐れのようなものが含まれていれば、それは不安や齟齬となって形を変えて現れたりするのかもしれません。
「ホフラコワ夫人」は、信じることができなくなった「信仰を取り戻」したいと思って質問をつづけます。
「・・・では、いったいどうすれば、何によって、それを証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、それをおねがいするために、今こうして参ったのでございます」、今のこの機会を逃したら、一生もう誰も答えてくれる人はいません、「何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう?」こうして、ここに立って、あたりを見まわしてみても、みんなこんなことなぞ、気に病んでいないのに、自分だけがそのような悩みに堪えきれないことは不幸なことだ、「死ぬほど!」と。
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