「ゾシマ長老」は「疑いもなく、死ぬほどつらいことです。だが、この場合何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」と答えます。
「どうやって?何によってですか?」と「ホフラコワ夫人」は直ちに問い返します。
「ゾシマ長老」は「実行的な愛をつむことによってです」と答えます。
変な日本語訳だと思うのですが、「実行的な愛」とは何でしょう。
これは、本当はいわゆるキリスト教でいう「愛」なのでしょう。
しかし、そう言えば抽象的すぎるので、「マルコによる福音書」の12章31節の「汝自身を愛するように汝の隣人を愛せよ」ということでしょう。
それこそ、ある意味、誰でも実行可能なことですので「実行的な愛」と長老は表現したのでしょう。
そして、「実行的な愛をつむこと」の「つむこと」というのは、そういうことを繰り返し繰り返し反復するという意味がこめられています。
「ゾシマ長老」は続けます、次の言葉は彼が確信をもって言った言葉です、そして難解であり、また重要な言葉だと思います。
「・・・自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験をへた確かなことです」と。
つまり、実際に隣人愛を実行してみなさい、それを徹底的に行い、完全な自己犠牲の境地まで行けたら、迷いはなくなるということです。
最終的に、来世への確信を得るためとはいえ、迷える羊にとっては、ハードルが高いと思いますが、とりあえずは実現可能なひとつの解決ではあるでしょう。
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