「ゾシマ長老」は、だいぶ前の話になるが、「それとそっくり同じこと」を、ある医者が自分に語ってくれたことがありますと言いました。
「それとそっくり同じこと」と言っていますが、別に愛の報酬云々の話ではなく、自分は「人類愛」が強いという共通点だけのことだと思いますが。
彼は続けます、それはもう年配の文句なしに頭のいい人で、あなたと同じくらい率直に話してくれました、もっとも冗談めかしてはいたものの、悲しい冗談でした、その人は言いました、自分は人類を愛しているが、人類全体を愛するようになればなるほど、個々のひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていく、自分の空想の中では人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、自分はおそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいない、しかし、それにもかかわらず、どんな相手とも一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でわかっているのです、だれかが近くにきただけで、その人の個性が自分の自尊心を圧迫し、自由を束縛してしまう、どんな立派な人でも一昼夜で憎むようになりかねない、また、ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、また別の人は風邪をひいてのべつ洟をかむという理由だけで、自分は憎みかねない、自分は人が自分にちょっと接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう、しかし、その代り、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する自分の愛はますます熱烈になっていくのだとその人は言うのです、と。
なんとなく、この医者の言うことは、実感できませんが、こんなことは本当にあるのでしょうか、人類愛と隣人愛の反比例ということですが、もしこの医者と「ホフラコワ夫人」の共通点をさがすとすると、それは、隣人愛からの逃避からくる愛の空想癖に対する自己批判のようなことではないでしょうか。
何かこのあたりのことはおよくわかりませんが、「ホフラコワ夫人」は、「では、どうしたらよろしいのでしょう?」、「絶望するほかないのですか?」と問います。
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