そこで「ゾシマ長老」は答えます。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさいませ。『高きを思い、高きを求めよ、われらの住み家は天上にあればこそ』です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!
」と。
ここで言われている「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。」について、どう解釈していいのかわかりませんでしたので、ネットでいろいろ見ているうちに、この会話の前後のやりとりについて、心の病としての自尊心というようなことをキーワードとして書かれたものがありました。
それは、かなりの長文で、しっかり読んではいないのですが、また、その意見に反論される方の文章もありましたが、この自尊心ということを考えながら読むと、前に出てきた「ゾシマ長老」の「受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。」という会話が、意地悪な言い方ではなくて、言葉のそのままの意味ですんなりと理解できるような気がします。
そして、先ほどの「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。」ということも二者択一の話ではないことがわかるように思います。
ただ、自尊心という言葉が適切かどうかはわかりませんが、そういうしかありません。
つまり、「イワン」が最も自尊心の病に侵されているということです。
「ゾシマ長老」は、「あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。」と「イワン」に言い、「イワン」もそれに同意し、わかってはいるのです。
ですから、次のような行動にでたものと思われます。
「ゾシマ長老」が片手をあげ、自席から「イワン」に十字を切ろうとしかけたときに、彼は椅子から立って長老に歩みより、祝福を受け、その手に接吻して無言のまま自席に戻りました。その顔つきはまじめな、毅然としたものでした。
みんなは、予想もしていなかった内容である「イワン」と長老の会話のすべてが、謎めかしく、一種の厳粛さによって驚き、一瞬、鳴りをひそめかけました。
「アリョーシャ」の顔にはほとんど怯えに近い表情があらわれました。
「ミウーソフ」はだしぬけに肩をすくめました。
「イワン」と長老の会話は、みんなには謎めかしかったと言いますので、長老が「イワン」の過度に尊大な自尊心ということを突いたということを理解できなかったのでしょう。
ほとんど怯えに近い表情をあらわした「アリョーシャ」だけが、ふたりの会話の本質がどこにあるかを強く感じていたのでしょう。
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