「ドミートリイ!」と「フョードル」は突然、別人のような声で叫びました。
「もしお前が息子でなかったら、今すぐ決闘を申し込むところだぞ・・・ピストルでな。距離は三歩・・・ハンカチを、ハンカチ一枚をへだててだ!」と、両足を踏み鳴らしながら、彼は言い終えました。
とうとう怒りが爆発したようですね。
しかし、語り手としての作者は冷静に分析しています。
「一生お芝居をしつづけてきた老いぼれの嘘つきにも、興奮のあまりもはや本当に身をふるわせて泣くほど、大熱演する瞬間があるものだ。とはいっても、ほかならぬその瞬間にさえ(あるいは、ほんの一秒後に)、『お前はまた嘘をついてるな、老いぼれの恥知らずめ。《神聖な》怒りだの、怒りの《神聖な》瞬間だのと言ってやがるくせに、現に今だってお前は役者気どりじゃないか』と、みずから心にささやくかもしれないのだが。」と。
「キレる」という言葉があります。
「Wikipedia」で「キレる(切れる)とは、主に対人関係において昂ぶった怒りの感情が、我慢の限界を超えて一気に露わになる様子を表す、日本の俗語。」と説明されています。そして、「1990年代初期に「若者がキレやすくなった」とマスコミで言われるようになり、一種の「若者に対するレッテル」として社会問題化して扱われることがあった。近年では、「キレやすい老人」「暴走老人」と言われる老人、または「モンスターペアレント」といった子育てをする「キレやすい」中年世代も出現し、若者に限らず「キレる」という現象が議論されている。」とも。
「怒り」と、この「キレる」との関係は、たとえば、「怒り」が高じて「キレる」という場合が多いと思いますが、「怒り」によっては、怒っている状態自体がキレている状態である場合もあると思いますので、不確かなのです。
ここでの「フョードル」の「怒り」はキレているといわれる状態だと思いますが、そういう場合は自分自身を失っていて、自分をなくしているということですから、極端に言えば、何をしてもその責任の所在は当人にはなく、「怒り」の感情に責任があるということになります。
「怒り」あるいは「キレる」の感情が純粋にどこかからやってくるわけで、作中の「《神聖な》怒りだの、怒りの《神聖な》瞬間」というのはそういうことなのでしょう。
しかし、作者のすばらしいのは、「ほかならぬその瞬間にさえ」の後に括弧書きで(あるいは、ほんの一秒後に)と加えたところだと思います。
これは、人間の自意識のあり方を表現しているのだと思います。
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