「ドミートリイ」も「ミウーソフ」が語る「イワン」の「自然の道徳律」の話を熱心に聞いていましたが、その内容が彼の心の琴線に触れたかのように突然「失礼ですが」と叫ぶように声を発しました。
「聞き違いしたくないものですから。『悪業は許されるべきであるばかりか、あらゆる無神論者の立場からのもっとも必要な、もっとも賢明な出口として認められさえする』こうでしたね?」と。
「そのとおりです」と「パイーシイ神父」が言いました。
これは、「イワン」がある集まりで語ったとされる「悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべき」ということを「ドミートリイ」なりの解釈で『悪業は許されるべきであるばかりか、あらゆる無神論者の立場からのもっとも必要な、もっとも賢明な出口として認められさえする』としたものです。
このことは、人間がなにものにも束縛されず自由な行動をとるならば、いわゆる「悪」とされる行為でも行うのであり、むしろ自由というからには、「悪」ということに束縛される方がむしろ悪いことになるので、あらゆる「悪」ということをも行う方が理にかなっている。つまり、ここで「性悪説」を例に挙げるのはおかしいかもしれませんが、人間本来の行動はなにものにも縛られない「悪」が基本になるものであって、結局は『悪業』は「自然の道徳律」である、ということでしょうか。
「パイーシイ神父」も「ドミートリイ」に同意しているのですが、この「ドミートリイ」が取り上げた部分の自分自身の心情の即したかのような解釈はこの物語全体の伏線となる重要な部分です。
だから、「パイーシイ神父」の同意のあとで、「おぼえておきましょう」と言う言葉を発しています。
そして、そう言ったまま、彼は話に突然割りこんできたときと同じように、ふっと口をつぐみました。
みなは好奇の目で彼を見つめました。
もう少し物語が進むとはっきりわかるのですが、すでに町の人びとは「ドミートリイ」について何か不穏な雰囲気を感じていたのであって、会合の出席者はこの発言によってさらにその思いが再認識されたのでしょう。
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