「ミウーソフ」は心を入れ替え愛想よく対応しようと決心していましたので、たとえ修道院長の手に接吻しそこねたといえども、そんなことは気にとめず、「院長さま、まことに申しわけございませんが」と愛想よく歯をのぞかせて微笑しながら、それでもまだもったいぶった、うやうやしい口調で切り出しました。
「愛想よく歯をのぞかせて微笑しながら、それでもまだもったいぶった、うやうやしい口調で」という描写が彼の複雑な自意識を見事にあらわしています。
彼は言います、「実は、お招きにあずかったフョードル・パーヴロウィチを置いて、われわれだけで参ったのでございます」、そのわけは、先ほど「ゾシマ長老」の僧庵で、ご子息との不幸な家庭内の諍いに前後を忘れて、場所柄をわきまえぬ、まったく失礼な言葉を口にしました・・・そのことはたぶん(と司祭修道士たちを見やって)もう院長さまのお耳にも達していると思いますが、というわけです、当人も自分の非を自覚し、心から反省して恥じ入っており、わたしとご子息の「イワン」君とに、くれぐれも院長さまに遺憾の意と、悲しみと後悔とをお伝えしてくれと頼んだしだいでございます・・・「一口に申して、当人はいずれ後日すべての罪ほろぼしをしたいと考え、望んでいるのですが、今日のところは院長さまのご祝福を乞い、先ほどの出来事を水に流していただきたと申しておりますので・・・」と。
「ミウーソフ」はここまで言って口をつぐみました。
彼はこの長広舌の最後のくだりを言い終えて、自分に満足し、先ほどまでの腹立ちなど心に痕跡もとどめぬくらいでした。
そして、彼はふたたび人類を心からまじめに愛していました。
「ミウーソフ」はいわゆる大人の対応をしたわけですが、「一口に申して、当人はいずれ後日すべての罪ほろぼしをしたいと考え、望んでいるのですが、今日のところは院長さまのご祝福を乞い、先ほどの出来事を水に流していただきたと申しておりますので・・・」のくだりは、彼としては自己満足しているのでしょうが、余計なサービスのように思いますが。
「彼はふたたび人類を心からまじめに愛していた」というのは、作者のユーモアですが、かなり奥深いユーモアです。
修道院長は「ミウーソフ」の話をもったいらしくきき終えると、軽く頭を下げ、答えて言いました。
「お帰りになった方のことは、まことに残念に存じます。ひょっとしたら、食事の間に、わたしどもがその方を愛しているのと同じように、わたしどものことも好きになっていただけたかもしれませんのに。さあ、どうかみなさん、召しあがってくださいませ」と。
さすがにすばらしい対応の仕方だと思います。
修道院長は聖像の前に立ち、声をあげてお祈りをはじめました。
みなはうやうやしく頭をたれ、地主の「マクシーモフ」なぞは、とりわけ敬虔な気持から両の掌を組んで、ひときわ前に身をのりだしたほどでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿