このまますんなりと話はすすむわけではありません。
ここで驚くべきことが起こります。
先に帰ったはずの「フョードル」が、まさにこの時、最後のとっぴな振る舞いに出たのです。
作者は、「断っておかねばならないが・・・」と前置きし、「フョードル」は本当に帰る気になりかけていましたし、長老の庵室であんな恥さらしな行いをしたあと、何事もなかったような顔をして修道院長のところへ昼食をよばれにいくことはできぬと、実際に感じもしていました。
しかし、彼はひどく恥じ入ったり、自責の念にかられたりしたわけではなく、むしろあべこべだったかもしれませんが、それでもやはり食事をするのは失礼だと感じたのです。
「むしろあべこべだった」かもしれないというのは、どういう心境だったのか、わかるような気もするのですが、これは微妙で複雑で、すぐに消えてしまいそうな感情です。
「フョードル」は、宿坊の玄関へがたぴし音のする馬車がまわされ、もはや乗りこむ段になってから、ふいに足をとめました。
彼は長老のところで言った自分の言葉を思い出したのです。
それはこういう言葉でした。「わたしゃいつも、どこかへ行くと、自分がだれより卑劣な人間なんだ、みなに道化者と思われているんだ、という気がしてならないんです。それならいっそ、本当に道化を演じてやろう、なってあんあたらは一人残らず、このわたしより卑劣で愚かなんだから、とおもうんでさ」
シーンを遡ってみれば、長老に、遠慮しないでわが家にいるように楽にしてくださいと言われた「フョードル」の発言です。
実際には、「・・・わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思いこんでるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。わたしが道化なのも、そんなわけなんでして。羞恥心ゆえに道化になるんです、長老さま。・・・」というところです。
そして「フョードル」は、自分自身のいやがらせに対する腹癒せを、みなにしてやりたくなったとありますが、腹癒せは、普通はいやがらせをされた側がするのですが、彼の場合は相手が自分にいやがらせをさせられた、という被害者意識を持っているのでしょうか。実際そうかもしれませんが、次の展開をみると少し違うようです。
「フョードル」はこんな時に、ふいに、たまたまなのですが、以前にあったことについて思い出したのです。
それは、「あなたはどうして、だれそれをそんなに憎んでいるんです?」ときかれたときのことです。
そのとき彼は、日ごろの破廉恥な道化ぶりの発作にかられて、こう答えました。
「つまり、こういうわけでさ。そりゃたしかに、あの男は何もわたしにしませんでしたよ。その代り私のほうが恥知らずないやがらせをしてやったんでさ。しかも、やってのけたとたんに、それが原因であの男が憎らしくなったんですよ」
この会話がされた時、どういう場面で、どういう相手だったのかわかりませんが、道化た者が道化られた相手を憎むとは理不尽なことではあります。
しかし、いやがらせをしたり、いじめたりしているうちに、相手はぜんぜん悪くないのにその相手に対して憎しみを抱くようになるということは、ありうることで、それは自分自身の問題でもあるのかもしれません。
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