2016年12月28日水曜日

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「これはいったいなんということだ?よくもこんなことが?」司祭修道士のグループの中で声があがりました。

司祭修道士のグループと書かれていますが、「イォシフ神父」「パイーシイ神父」ともうひとりの司祭修道士の三人です。

名前が挙げられてないもうひとりの司祭修道士の発言かもしれません。

「帰ろう!」と「ミウーソフ」は「カルガーノフ」をふりかえって叫びました。

ところがそうはさせません、「フョードル」は「そうはいかん、待ちなさい!」と部屋にさらに一歩踏みこんで、金切り声でさえぎります。

そして、こう言います、あっちの庵室で自分は、まるで失礼な振舞いをしたみたいに、恥をかかされたけど、それと言うのはウグイのことを口走ったからで、自分の親戚の「ミウーソフ」さんは、「話の中に誠意より上品さのほうが多いのをお好みだが、わたしは反対で、自分の話に上品さより誠意の多いほうが好きなんでさ。上品さなんぞ、くそ食らえですよ!そうだろうが、フォン・ゾーン?失礼ですがね、院長さま、わたしはそりゃ道化だし、道化をよそおってもいますけど、しかし、名誉の騎士ですから、はっきり申しあげておきたいんです。そうですとも、わたしゃ名誉の騎士だけれど、このミウーソフさんなんざ、ひねこびた自尊心があるだけで、はかには何もありゃしませんや。さっきわたしがこちらへ伺ったのだって、ことによると、しかと見届けてはっきり言わせてもらうためかもしれませんぜ。実は倅のアレクセイがこちらで修行しているんですが、わたしは父親として倅の身の上が案じられますし、また案ずるのが当然ですからな。わたしはずっと話をきいたり、演技をしたり、こっそり観察したりしてきましたけど、こちらであなた方に最後の一幕を演じてさしあげたいんでさ。そもそもわが国の現状はどうですか?わが国では、倒れた物は倒れっぱなし。倒れたら最後、永久に倒れてなけりゃならないんでさ。なんとかこれを変えられないものでしょうか?わたしは立ち上がりたいんです。神父さん、わたしゃあなた方に腹を立てているんですよ。もともと懺悔というのは偉大な聖秘礼で、それに対してはこのわたしだって敬虔な気持になるし、ひれ伏すつもりでいるというのに、ふと見ればあそこの庵室じゃみんながひざまずいて、声をだして懺悔してるじゃありませんか。いったい声をだして懺悔するなんてことが許されているんですか?懺悔はひそやかに耳もとでと、尊い神父さんたちによって定めらいるんだし、そうしてこそはじめて懺悔が聖秘礼になるんでさ、しかし、これは大昔からずっとですよ。でなけりゃ、早い話このわたしが、つまり、これこれしかじかだなんて、みんなの前でどうして説明できますか、わかるでしょうに?時には口にだすのがはしたないことだってありますからね。そんなことすきゃ、それこそスキャンダルだ!いけませんよ、神父さん、どうもあなた方は鞭身教(訳注 ロシア正教の一分派。禁欲と苦行を説いた)の傾向がありなさるようだ・・・わたしは手近な折をみて宗教院に投書しますからね、それから倅のアレクセイは家へ引きとります・・・」と。


この「フョードル」の長い発言には一貫性というものがありません。自分が「ウグイで神さまが買える」のかと、修道士たちに毒づいたことが原因で、恥をかくはめになったのだと、反省しているような素振りも少しあるような言い方をし、それから、それとは別に話が変わってまたまた「ミウーソフ」批判です、つまり、自分は上っ面より誠意の方を取ると言っています、世間体や礼儀などより、気持ちや心を大事にしているということです、そして、「ミウーソフさんなんざ、ひねこびた自尊心があるだけで、はかには何もありゃしませんや」と徹底的に「ミウーソフ」を批判しています、ここで「自尊心」とは「ウィキペディア」では、「心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度である。一般には自惚れなどとも同一視されるが、ここでは社会心理学における自己の概念に関連して高揚もしくは維持されようとする態度、あるいは精神医学(QOL)上の『ありのままの自己を尊重し受け入れる』態度とする。」と説明されています、この説明では、「自尊心」はありすぎても、なくても困るのですが、「ミウーソフ」の「自尊心」は自己肯定や自惚れというものであって、そういうものはなくてもいいものです、しかし、この「自尊心」を自分の中でどう処理するかということは難しいことですが、そして、次に「フョードル」は、「さっきわたしがこちらへ伺ったのだって、ことによると、しかと見届けてはっきり言わせてもらうためかもしれませんぜ。」と続けていますが、これは、読み方によって意味が違ってくるのですが、あとに続く「アリョーシャ」を引き取るという話ではなく、彼がわざわざ引き返してきた一番大きい理由として、「ミウーソフ」の「自尊心」のことを言いたかったのではないかと思います、また、最後に「あなた方に最後の一幕を演じてさしあげたいんでさ。」と言って、修道院に対して苦言を呈しています、そのひとつは、弱者を救済しないこと、あとひとつは、懺悔のことです、これらは、正論であると思いますが・・・。


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