「フョードル」は修道院長の言葉に毒づきます。
「これだ、これだからな!偽善だ、古くさい台詞だ!台詞も古けりゃ、しぐさも古くさいや!古めかしい嘘に、紋切型の最敬礼ときた!そんなおじぎは、こちとら承知してまさあね!シラーの『群盗』にある『唇にキスを、胸には短剣を』ってやつだ。神父さん、わたしゃ嘘がきらいでね、真実がほしいんですよ!しかし、真実はウグイの中にゃありませんぜ、わたしが言ったのもそこでさあ!ね、神父さんたち、あんた方はなぜ精進をなさるんです?どうして、それに対するご褒美を天国に期待してるんです?そんなご褒美にありつけるんなら、わたしだって精進しまさあね!だめですよ、尊いお坊さん、修道院なんぞにひっこもって据膳をいただきながら、天国でのご褒美を期待していたりせずに、この人生で徳をつんで、社会に益をもたらすことですな、そのほうがずっとむずかしいんだから。わたしだってまともなことを言えるでしょうが、院長さん。ところで、ここにゃ、ご馳走がならんでるんだろう?」彼は食卓に近づきました。
「ファクトリーの古いポートワインに、エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒か、いやはや、神父さん!こいつはちとウグイとは様子が違うようですな。神父さんが酒壜をならべるとはね、へ、へ、へ!いったい、こういうものをすべて、ここへもたらしてくれたのは、だれでしょうな?それはね、ロシアの百姓でさ、勤労者がマメだらけの手で稼いだわずかばかりの金を、家族や国家の必要からもぎとって、ここへ納めたんですよ!あんた方はね、尊い神父さんたち、民衆を食いものにしてるんですぜ!」
修道院長に対して、よくここまで楯突いたものだと思いますが、「フョードル」の言うことには正しい一面があります。
つまり、天上でなく地上で生きなさいと言うことでしょう。
こんなことは、西洋に思想に影響された「ミウーソフ」が言うべき言葉です。
ここでは、またシラーの『群盗』が出てきますが、「フョードル」は、何かを別の何かにあてはめて置き換える才能の持ち主のようですが、これはほめすぎかもしれませんが、ある意味で思想家と言ってもいいのではないでしょうか。
また彼は、人物に対する観察力たけではなく、その経験からいろいろな物にたいする知識も深く、食卓の上にならんだ「ぶどう酒」を「ファクトリーの古いポートワイン」と言い、「修道院でとれた上等の蜂蜜酒」を「エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒」とすぐに見抜いています。
この「エリセーエフ兄弟」というのをネットで見てみると、面白い資料がみつかりました。
詳しくは調べておりませんが、「ロシア極東連邦総合大学函館校」というところの一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の講話内容として掲載されていました。以下のとおりです。
テーマ:「エリセーエフ家の人々」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)
エリセーエフ家は、19世紀末から20世紀にかけ、食料品店「エリセーエフ兄弟商会」を営み、富を築きました。今日は、この一家で主にセルゲイ・エリセーエフ(Сергей Елисеев 1889~1975年)という人物とその店についてお話します。
エリセーエフ兄弟商会の始まりは、ピョートル・エリセーエフの始めた果物とワインを取り扱う店でした。ピョートルは自らの足で、スペインなどの諸外国に行き、各地の名産のワインを集めて販売し、気づけば街で第一級の店舗を構えるまでになっていました。
お店は、モスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りとペテルブルクのネフスキー通りにあり、どちらも豪華絢爛なつくりで建てられました。店には、食料品、乾物、果物、お菓子、食器の5つの部門のほか、地下にはワイン蔵もありました。
ピョートルには息子が3人おり、この店については孫のグリゴーリの活躍により大きくなり、フランスにも店舗をだすほど成長しました。グリゴーリは、店舗経営のほか、銀行設立、市議会議員も務め、『エリセーエフ』という名前を世に知らしめました。
話を戻しますが、ピョートルの3人の息子の一人、セルゲイ・エリセーエフは、英才教育によって中等学に上がる前に必要な教育は全て終えていたと言われています。フランス語、英語、ドイツ語を話すことができ、中等学校に入学後はギリシャ語とラテン語を勉強し、卒業するころには、母国語以外に5つの国の言葉を自由に話すことができました。
またパリ万国博覧会を訪れた際に中国などの東洋文化にとても興味を持ち、中等学卒業後はベルリン大学で東洋学の専門家のもとで学びました。このベルリン大学での勉強が日本へ留学するきっかけとなりました。
1908年、日本の東京帝国大学へ留学した彼は、成績優秀でした。日本美術史を隅から隅まで学び、日本文学も学びました。1912年の卒業式では、明治天皇が臨席し、最前列で天皇を迎えるという栄誉を得ました。
1914年に帰国後は、ペトログラード大学で日本語の講師となりました。しかし、1917年に起こったロシア革命で、国内での学者としての道を閉ざされました。ロシア有数の富豪の息子だったという理由だけで、抑圧の対象となり投獄されたのです。
その後フランスに亡命し、日本大使館で通訳として働きながら、ギメ東洋美術館の日本コレクションの管理者となり、次にソルボンヌ大学で教鞭を執りました。
1932年にはアメリカのハーバード大学の日本語講師として招かれ、働き始めましたが、気が付くと学部長にまでなり、およそ四半世紀にわたり教鞭を執りました。彼はロシア人でありながら、フランス国籍を持ち、アメリカで日本学の開祖となりました。
第二次世界大戦時、アメリカ陸軍に対して行う日本語学習プログラムの依頼も受けました。大統領などから日本についての質問をよくされたそうです。彼は日本への原爆投下予定都市を聞き「京都だけは外すように」と強く訴えました。その訴えがどれほどの影響を与えたのかは分かりませんが、京都は爆撃を受けずにすみました。
戦後、彼はハーバード大学に戻り、定年後は、ロシアではなくフランスに帰りました。今は、パリ郊外の墓地で静かに眠っています。
最後になりましたが、彼の生家「エリセーエフ兄弟商会」はその後どうなったかというと、ソ連時代には名前を変え「食料品店No.1」となりました。当時、学校もそうでしたが、お店の名前なども全て番号制になっていました。しかし、街の人たちは親しみをこめ、かわらず「エリセーエフ(兄弟商会)」と呼びました。
当時、建てられた豪華な店舗は現在も残っています。ペテルブルクの店舗は長い時間をかけて改装し、2012年に新装開店しました。20世紀初めのイメージで美しいインテリアで統一されています。今日は、そのお店の様子を映像と写真で見て終わりにしましょう。(略)
以上です。「カラマーゾフの兄弟」が単行本として出版されたのが1880年ですから、「フョードル」のいう「エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒」というのは、当時のこの店のことです。この講義でこの家と日本との関係についても語られており驚きとともに興味深く読まさせていただきました。
また、日本に来たセルゲイ・エリセーエフは夏目漱石らとも親交があり、このあたりのことは、荒このみ氏が「エリセーエフ兄弟商会」というタイトルで詳しく書かれております。(PDFで公開されています)
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