「君はあの女性のことで誤解しているよ。ドミートリイはあの人を・・・軽蔑しているんだよ」と、なぜか震えながら「アリョーシャ」は言いました。
「あの人を」と「軽蔑しているんだよ」の間に「・・・」がありますが、この「・・・」の意味することろは複雑なことと思われます、また「なぜか震えながら」と書かれていますので、心中もおだやかではありません。
そしてここでは「アリョーシャ」は「ミーチャ」と言いそうなところですが、そうではなく「ドミートリイ」と言っていますので、これも何か意味するところがありそうです。
「ラキーチン」は、「グルーシェニカをかい?とんでもないよ、君、軽蔑なんかしているものか。だって、いいなずけを公然とあんな女に見変えた以上、軽蔑してなんかいないさ。ここには・・・ここには、今の君にはわからないことがあるんだよ。男ってやつはね、何かの美に、つまり女性の身体なり、あるいは女性の身体のごく一部なりにでさえ、ぞっこん参ってしまったら(女好きなら、このことはわかるんだが)、そのためには自分の子供でも手放すし、父や母でも、ロシアでも祖国でも売り渡しちまうもんなんだ。正直だった男が盗みを働き、温厚でありながら人殺しをし、忠実だった男が裏切ったりするのさ。」と、そして、女性の足の賛美者である「プーシキン」は詩の中で女の足をたたえているし、ほかの連中もぞくぞくしずにはいられない、しかしそれは足だけに限らないが、だから、仮に「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」を軽蔑しているとしても、この場合、軽蔑なんか何の役にも立たないんだよ、と。
しかし、なぜ「ドミートリイ」はあの女性、つまり「グルーシェニカ」のことですが、軽蔑していると言ったのでしょうか。
「フョードル」は先ほど「グルーシェニカ」のことを「あんたら修行中の司祭修道士なんぞより、よっぽど神聖かもしれませんよ!」とまで言っていました。
「アリョーシャ」の言葉をそのままとれば、「ドミートリイ」と「フョードル」この二人の「グルーシェニカ」にたいする見方の違いが興味深く思われます。
また、「ラキーチン」は「軽蔑」とか「神聖」とかを越えた男女間の関係のあり方を物知り顔で披露していますが、「いいなずけを公然とあんな女に見変えた以上、軽蔑してなんかいないさ」と言うあたりは、うわべだけ見て本質をはずしているように思います。
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