2017年1月10日火曜日

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「アリョーシャ」の帰郷後も、「フョードル」の心にこれに類したことが起こりました。

「アリョーシャ」が帰郷したのは、二十歳くらいの時ですね。家を離れたのが四歳くらいの時ですから、あまり記憶は残ってないでしょう。そして、しばらく「フョードル」の家にいてから、一年くらい前に修道院に移ります。そのときの二人の会話は前に書かれていましたね。「フョードル」の家に何ヶ月くらいいたのかはわかりません。

「アリョーシャ」は『いっしょに暮して、すべてを見ていながら、何一つ非難しなかった』ことによって、『彼の心を突き刺した』のでした。

それだけでなく、「アリョーシャ」は、老人に対する軽蔑の完全な欠如と、むしろ反対に、そんな値打ちもない父親に対する常に変らぬやさしさや、ごく自然な偽りのない慕情という、これまで彼の知らなかったものをもたらしました。

このようなことは、家庭の味を知らない年老いた放蕩者にとって、まったく予期せぬ贈り物であり、これまで《汚れたもの》だけを愛してきた彼にしてみれば、まるきり思いもかけぬことでした。

「アリョーシャ」が修道院に入ったあと、彼はそれまで理解しようとも思わなかった何かしらが、自分にも理解できたと、心ひそかに認めたのでした。


それは何でしょう。「常に変らぬやさしさ」や「ごく自然な偽りのない慕情」や「家庭の味」についてはここに書かれていますので、そういうこと以外のものということになりますが、「フョードル」が「それまで理解しようとも思わなかった何かしら」、しかもそれをもたらした本人が去った後に「自分にも理解できた」こととは一体何でしょうか。これはおそらくすべての読者がわかっていることなんですということで書かれているのでしょう。

それにしても「アリョーシャ」のやさしさは何でしょう。
普通なら、父親が反道徳的な行いをしていると注意すると思いますが、そんなことはしないで何一つ非難しません。これは、見て見ぬふりをしているのでしょうか、それとも自分には関係ないことと割り切っているのでしょうか、普通なら、身内が、家族が、そのような破廉恥な行いをすれば、わがことのように思い、嫌な顔をして軽蔑もするでしょうし、身内であることの義務として注意してあげなければならないと思うでしょう。召使いの「グリゴーリイ」は立場上言えないでしょうが、「アリョーシャ」は息子なわけですから。しかし、「アリョーシャ」はそのようなことのすべて放棄して、暖かく迎えます。これは無責任と言えるかもしれません。ここには何があるのでしょう、どう理解すればいいのでしょう。すべてを許すというのは暖かい血が流れているのでしょうか、それとも冷たい血が流れているのでしょうか。


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