2017年1月23日月曜日

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三 熱烈な心の告白-詩によせて

また時間をさかのぼります。

「フョードル」がわめきちらしながら、修道院の食堂から出ていくところです。

「アリョーシャ」は、父が修道院を出るときに馬車の中から叫んだ命令をきくと、しばらくの間ひどく不審そうにその場にとどまっていました。

「フョードル」は、「枕も敷布団もかついでくるんだ、こんなところにお前の匂いも残さんようにしろ」と叫んだのですね。

といっても、「アリョーシャ」はそれを聞いて、呆然と立ちつくしていたわけではなく、彼に限ってそんなことはありませんでした。

むしろ反対に、彼は不安にかられて、すぐさま修道院長の台所に駆けつけ、父が上の食堂で何をしでかしたかをききだしました。

「上の食堂」と書かれていますので、修道院長の住むところは2階建なのでしょうか、構造がわかりません。

そして「アリョーシャ」は、そのあと、自分をいま苦しめている問題も町へ行くみちみちなんとか解決できるだろうと期待しながら、歩きだしました。

「アリョーシャ」は町のどこか歩いていこうとしているでしょうか、そして、「みちみち解決できる」とは、「フョードル」のことで、彼が町に行く途中で思い直すかもしれないと期待しているのでしょうか、わかりませんが、彼はある面で楽観的ですね。

ところが、少し先を読めばわかるのですが、「アリョーシャ」は「カテリーナ」の家に向かっているのですね。

実際には途中で「ドミートリイ」に会ったり、いろいろ寄り道するのでかなり先になりますが。

そして、「自分をいま苦しめている問題も町へ行くみちみちなんとか解決できる」というのは、「フョードル」のことではなく、「カテリーナ」にたいする自分の恐れのことなのでした。

「あらかじめ言っておくが」と作者は前置きして続けます。

父のどなり声や、《枕や布団をかついで》家に移ってこいという命令など、彼は少しも恐れていませんでした。

きこえよがしに、それもあんな芝居じめた大声での、帰ってこいという命令が、つい《調子にのりすぎて》、いわば格好をつけるために言ったものであることくらい、わかりすぎるほど、よくわかっていました。

「格好をつけるため」というより、言葉のいきおいで《調子にのりすぎて》の方が適切に思います。

自分の気持ちの勢いがどのくらい激しいものなのかを周りに知らしめるために、言葉の使い方も躊躇せずに、気持ちの激しさと同じように過激な内容にしてみせているということだと思いますが、こういう状態は自分の気持ちの中で言葉との体裁を整えるという意味では「格好をつける」とも言えるのでしょうか、またそれは他者に対しても「格好をつける」ことになるのでしょうか。

作者は、この「格好をつける」ことを別の例で説明します。

それは、ちょうど、つい先ごろのこと、とのことです。

この町のさる町人が、自分の名の日の祝いに、すっかり酔払ったあげく、それ以上ウォトカを出してもらえないのに腹を立て、客の前だというのに、いきなり自分の家の食器を割ったり、自分や妻の服を引き裂いたり、家具をたたきこわしたりしはじめ、はては家の窓ガラスまでたたき割ったりしたことがあったが、これもみな、やはり格好をつけるためでした。

だから、いま父に起こったことも、もちろん、これと同じ類いにきまっています。

酔払った町人が、翌日しらふに帰ってから、割った茶碗や皿を惜しがったことは言うまでもありません。

この町人の例証のシチュエーションがわかりにくいのですが、彼は自分のお祝いに客をまねいてどこかの店で飲んでいて、飲みすぎたためウォトカを出してもらえず、客を引き連れて自宅に帰って、それからあばれたと読めますが、ここで、「格好をつけるため」の説明とするのは、少し不自然といえば不自然ですね。


このようになった時の人間の心理というのは、一見単純なことのようですが、それを分析するのはたぶんものすごくむずかしいことのように思います。


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