「グリゴーリイ」は自分が主人の「フョードル」に対して疑いもなく勢力をもっていることをわかっていました。
一般的にはこのようなことはよくと思うのですが、制度的な主従の関係においては少ないかもしれませんね。
「フョードル」は抜目がなく強情な道化ではありましたが、当人の表現をかりるなら《人生のある種のこと》にかけてはいたって強固な性格のくせに、そのほかのもろもろの《人生のこと》になると、自分でもあきれるくらい、からきし意気地がありませんでした。
彼自身もどういうことに意気地がないかを承知しており、知っているだけにまた、いろいろなものを恐れていました。
人生のある種のことに関しては、いつも警戒していなければならず、その際にも信頼できる人間がついていないとつらかったのですが、その点「グリゴーリイ」はいちばん信頼できる人間でした。
「フョードル」がここまで成りあがるまでには何回となく打撃を、それも手ひどい打撃を受けかねぬ場合さえありましたが、いつも救ってくれたのは「グリゴーリイ」でした。
ただしそのたびに「グリゴーリイ」はあとで主人に説教するのでした。
しかし、単に打撃だけなら「フョードル」も臆さなかったかもしれませんが、しばしばもっと崇高な、きわめて微妙で複雑でさえあるような場合が生じ、そんな時、一瞬のうちに、理解できぬくらいふいに心の内に感じはじめる、身近な信頼できる人間がほしいという異常な欲求を、「フョードル」は自分でもうまく説明できなかったにちがいありません。
それはほとんど病的と言える場合でした。
放蕩の限りをつくし、色情にかけてはしばしば毒虫のように残忍な「フョードル」が、ときおり、酔った瞬間になど、いわば生理的にとさえ言ってよいほど魂の底にこたえる精神的恐怖と道徳的戦慄とを、ふいに感じるのでした。「そんな時には、魂がまるで咽喉の辺でふるえてるみたいでな」とときおり彼は洩らしました。
離れに、忠実で意志堅固な、自分とはまるきり違って淫蕩でない人間が控えていてくれるのを、彼が好もしく思うのは、まさにそんな瞬間でした。
たとえ目の前で行われるいっさいの乱行を見て、すべての秘密を知っていても、忠義心からすべてを黙認して、反対もせず、そして何より大切なのは、この世においてもあの世でも非難したり、脅したりせず、しかもいざというときには自分を守ってくれるような人間が、そばにいてほしいかったのです。
それにしても、いったいだれから守るというのでしょうか?
だれか正体の知れぬ、恐ろしい危険な者からです。
要するに肝心なのは、昔馴染みの気心の知れた、ぜひとも別のタイプ(上に傍点あり)の人間がいてくれるという点であり、苦しいときにその男をよんで、ただ顔を見つめ、何かまるきり関係のないことでもよいから言葉を交わすことができるという点であって、もし相手がべつに腹も立てなければ、なんとなく心が楽になるし、相手が腹を立てれば、そのときにはいっそう気が滅入るというわけでした。
「フョードル」についてこれまでも十分に人物描写がなされていたと思います。
そして、「いわば生理的にとさえ言ってよいほど魂の底にこたえる精神的恐怖と道徳的戦慄」という言葉にできないような人間の存在の孤独のあり方を彼の心理の内面に生じる一瞬の感情を微細にすくい上げてここまで記述しているのは驚きます。
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