2017年2月7日火曜日

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『エレウシスの祭』の引用を終えた「ドミートリイ」は続けて言います。

「ただ問題は、どうやってこの俺が大地ととわの契りを結ぶかってことだよ。俺は大地に接吻もしないし、大地の胸を切りひらきもしない。いっそ俺は百姓か牧夫にでもなるべきなんだろうか?俺はこうして歩みつづけながら、いったい自分が悪臭と恥辱の中に落ちこんだのか、光と喜びの世界に入ったのか、わからない。そこが困るんだな、なにしろこの世のすべては謎だよ!よく、恥さらしな放蕩のいちばん深いどん底にはまりこむようなことがあると(もっとも、俺にはそんなことしか起らないけど)、俺はいつもこのケレースと人間についての詩を読んだものだ。じゃ、この詩が俺を改心させただろうか?とんでもない!なぜって、俺はカラマーゾフだからさ。どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい、まさにそういう屈辱的な状態で堕落するのこそ本望だ、それをおのれにとっての美と見なすような人間だからなんだ。たからほかならぬそうした恥辱の中で、突然俺は讃歌をうたいはじめる。呪われてもかまわない、低劣で卑しくともかまわないが、そんな俺にも神のまとっている衣の裾に接吻させてほしいんだ。一方では同時に悪魔にのこのこついて行くような俺でも、やはり神の子なんだし、神を愛して、それなしにはこの世界が存在も成立もしないような愛を感じているんだよ。

ここで「ドミートリイ」は「なぜって、俺はカラマーゾフだからさ。」と言っています。

この「カラマーゾフ」の意味は前にもこのような言い方で出てきたのですが、いったい何でしょう。

はじめに出てきたのは「ミウーソフ」のつぶやきで『よほど鈍いし、カラマーゾフ的良心てやつだな』というのがありました。

ここでの意味は厚顔無恥で恥知らずというような意味でしょう。

それから「ラキーチン」は「アリョーシャ」にたいして、「どうして君はそんなに純情なんだろう?君だってカラマーゾフなんだぜ!」とか「君自身もやっぱりカラマーゾフだよ、完全にカラマーゾフだ。要するに、血筋がものを言うってことだな。父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけだ」とも言っています。

まず、「ドミートリイ」について、愚かであるが正直であって女好きでもある、これが彼の定義であり内面的本質のすべてである、これは父親から卑しい情欲を譲り受けたからだ、と。

また、「君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどなっていて」とか「イワン」については、「イワン」だって、カラマーゾフなのだから同じである、女好きと、強欲と、神がかり行者!「ここにカラマーゾフ家の問題のすべては存するんだ」とも。

つまり、「カラマーゾフ」的ということの何であるかは非常に重要なことだと思いますが文中に出てくるものに限ってそれを羅列してみれば、①厚顔無恥の恥知らず、②色好み、③卑しい情欲、④神がかり行者、⑤愚か、⑥正直、⑦強欲、そんなものでしょうか。

これが全体を見れば、「カラマーゾフ」的とはどんなものであるか、何となくわかります。

これらが「カラマーゾフ」の血筋だということで他者からもそう思われているし、自分たちもそう思っているということですね。

だから「ドミートリイ」は自分の中の大地というか、ロシア的な大地に足のついた神への思いを胸に抱くことによって「カラマーゾフ」的なものと戦ってきたのでしょう。

人間の心の中の神と悪魔の戦いですが、それは、善と悪というふうに単純に分かれるのではなく、頭ではわかっていても、自分の中の正直な気持ちの中では神も悪魔も肯定もし否定もするところがあり、複雑に絡み合っていて、時にはその区分さえわからなくなってくることがあるということが問題なのではないでしょうか。


だから「ドミートリイ」は「なにしろこの世のすべては謎だよ!」と言うのでしょう。


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