「言い添えておかねばならないが」と作者は書いています。
「フョードル」は彼の正直さを信じていただけではなく、なぜか目をかけてさえいたのだけれど、そのくせ青年のほうでは、ほかの者に対するのと同じように冷やかに相手を眺め、いつも黙りこくっていました。
口をきくことなどめったにありませんでした。
かりにそんなとき、だれかが彼を見て、この若者は何に興味をもっているのだろう、どんなことをいちばんひんぱんに頭に思いうかべるのだろうと、たずねてみる気を起したとしても、本当は、彼を見ているだけでは解決できなかったにちがいありません。
ところが実際、彼はときおり家の中や、あるいは庭や往来でさえも、立ちどまって、物思いに沈み、十分くらいそのままだだずんでいることがありました。
人相見なら、彼を見つめて、ここには思索も思考もなく、ただ一種の冥想があるだけだ、と言うことでしょう。
画家の「クラムスコイ」に『冥想する人』という題の傑作があります。
冬の森の絵で、森の中の道に、ぼろぼろの外套に木の皮の靴をはいた百姓がたった一人、ひっそりと淋しい場所で道に迷ってたたずみ、物思いに沈んでいるように見えるのですが、べつに考えごとをしているわけではなく、何かを《冥想して》いるのです。
とんと一突きすれば、その百姓はびくりとして、夢からさめたようにあなたを見つめるでしょうが、何もわからないでしょう。
たしかに、すぐ我に返りはしますが、何をたたずんでかんがえていたのかとたずねても、きっと何一つ思いだせないにちがいありません。
しかし、その代り、冥想の間いだいていた印象はおそらく心の内に秘めていることでしょう。
その印象は彼にとっては貴重なものですし、きっと、意識さえせず知らぬ間にそうした印象を彼は貯えてゆくはずです。
なぜ、何のためにかは、もちろん彼にはわかりません。
永年の間に印象を貯えた末、ことによると、彼は突然すべてを棄てて、巡礼と魂の救いのためにエルサレムへおもむいたり、あるいはふいに故郷の村を焼き払ったりするかもしれませんし、ひょっとすると、その両方がいっぺんに起るかもしれません。
冥想家は民衆の中にはかなり多いのです。
きっと「スメルジャコフ」もそうした冥想家の一人だったのだろうし、おそらく彼もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからないまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいありません。
作者は「スメルジャコフ」についてかなり詳細に性格描写をしています。
彼がどんな人間で何を考えているかなどということは、誰にもわからないということです。
ただ、この作品の語り手はわかっています。
画家の「クラムスコイ」は、「ロシアの画家・美術評論家。1860年から約20年にわたって「移動派」の知的・精神的な指導者であり続けた」とのことです。
(キエフ市ロシア美術館にある『冥想する人』という作品は以下に貼り付けました。)
ここで、作者はかなり熱心に「冥想」について書いています。
「冥想家」は民衆のなかにかなり多いとも書いています。
しかし、「冥想」というのは、「思索」しているわけでもなく、ただ「ボーっとしている」わけでもなく、どういいう心理状態でしょうか、なかなかわかりにくい面があります。
「冥想」は「思索」と「ボーっとしている」との中間にあるものではないことはわかりますが、当人に「冥想」しているという意識がないわけですから、動物的な反応でしょうか、それとも反対に人間的な無意識のあり方なのでしょうか、わかりません。
しかし、通常は面倒臭いので「ボーっとしている」ことの中に「冥想」も含まれていますね。
作者は「冥想家」について、自分では意識しないで思い切ったことをするような、ある意味で危険性があるうるというように書いていますが、「スメルジャコフ」はそのような「冥想家の一人」なのです。
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