七 論争
ところが、このパラムの驢馬がふいに口をききはじめたのであります。
もちろん、「パラムの驢馬」とは「スメルジャコフ」のことですね。
たまたま奇妙な話題になったということです。
今朝早く「グリゴーリイ」がルキヤーノフの店に買出しに行って、そこでさるロシアの兵士の話をきいてきたのですが、その兵士はどこか遠い国境で、アジヤ人の捕虜になり、ただちに虐殺すると脅迫されながら、キリスト教を棄てて回教に改宗することを迫られたのですが、信仰を裏切るのをいさぎよしとせずに苦難を甘んじて受け、皮を剥がれ、キリストを讃美しながら死んでいったという-この英雄的な行為はちょうどこの日配達された新聞にものっていました。
その話を「グリゴーリイ」が食事の席ではじめたのです。
「フョードル」は以前から、食後のデザートのときにいつも、たとえ「グリゴーリイ」が相手でも、一笑いしたり、しゃべったりするのが好きでした。
このときも軽やかな、快くくつろいだ気分になっていました。
コニャックをなめながら、伝えられたこのニュースをきき終ると、彼は、そういう兵士はすぐに聖者に祭りあげて、剥がれた皮はどこかの修道院に寄付すべきだ、「そうすりゃ人がわんさと殺到して、賽銭も集まるしな」と感想を述べました。
「グリゴーリイ」は、「フョードル」が少しも感動せず、いつもの癖で冒瀆しはじめそうな気配を見てとり、眉をひそめました。
このエピソードはここまでは、なんと言うこともないのですが、「アジヤ人の捕虜」になったくだりは、驚いたことに現在のイラクとシリア両国の国境付近の状況と同じですね。
アジアのことをアジヤと翻訳文では書かれていますが、ISILとかISISとかでも違和感はありません。
この話に反応する「フョードル」の態度も彼らしいユーモアを交えていますし、それに対して「グリゴーリイ」が批判的な態度をとるということもごく自然なことのように思います。
ここまでは、まだ平穏と言える日常のひとこまでした。
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